circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

カラスの十代


と書きながら、ダジャレに終わらない詩情を僕は感じてしまったのだが、どうやら「ハラスのいた日々」との連想がハレーションのように起こっただけのようだ。ちなみに読んですらいませんが、題名はいいなあと思っていたのでした。たぶん悲しげな本なんだろうなと。カラスといえば「存在としての子役」俳優アナ・トレントの2作目の題名がカラスの飼育というもので、監督はサウラで、ミツバチのエリセに比べれば格が違う感じがした。だけど、アナの存在感は健在で、あのときより、より強い意志をもった視線をしていて、何より、ビルの上から飛び降りるように空虚な顔をしていた。なにより、そこで僕は初めて(実は再会だったのだが)モンポウの音楽を知ったのだ。歌と踊り6番の「歌」。この暗い曲をアナ(もはや役名はアナではなかった、いや嘘、アナでしたごめんなさい)は大好きで、こんな暗い曲ばかり母(ジェラルディン・チャップリン)にせがむのだった。そしてこのチャップリンの娘は実際にこれをピアノで弾くのだった(あれはアフレコではない動きだったと思うのだが)。その旋律に僕はおぼれた。いまでもあれを聞くとアナのどうしようもない視線を思い出すことがある。カラスの飼育というのは、ホンはありふれた夫婦喧嘩→離婚みたいな話で、そうすると撮り方の問題になってきて、やっぱりエリセみたいに神話的にはならないのだけれど、アナの撮り方は好きだった。とにかく僕はアナファンで、アナの映画は借りれるもの全部借りた。エル・ニドという映画で貴重な13歳のアナを見ることができるのだが、6歳,8歳のときに持っていた「存在としての女優」ではなくなってしまっている。「演技」が始まっているように感じた。そもそも、もはや美少女ではなくなってしまっていた。あの可愛らしい丸顔が長くなり始め、そんな微妙なラインの少女が「彼女の大人びた眼差しに魅せられたアレハンドロは、いつしか親子以上に年齢の離れた彼女を愛するようになり、二人は互いに愛を誓い合う。」なんて言われても、納得できなかったのを覚えている。次の血と砂でハリウッドに進出した23歳のアナをみることができるが、あのオーラは見る影もない(悲しいぐらい)。しかも共演シャロン・ストーンだし、これはひたすらシャロン・ストーンのエロ映画(「森の中での立ったままのセックス描写で見せ場を作っている」だけの映画 by allcinema)で、アナは闘牛士シャロンに取られるだけ(しかも名前が「カルメン」というのが酷い)というどうでもいい役で、あまりにもつまらないので当然2倍速で見た。しかししかし!次に現れるのがあの今をときめくアレハンドロ・アメナーバルの23歳でのデビュー作「テシス」である(アメナーバルの次作があの「オープン・ユア・アイズ」(「バニラスカイ」にリメイクされたが、オリジナルのほうが当然面白い)、次にハリウッドに出て(トム・クルーズ(元)夫妻に気に入られたようだ)「アザーズ」(ちょっと落ちる)、そして「海を飛ぶ夢」(言葉も出ない名作)とまだ長編は4本しかとっていない)。しかも、今回は主役である!相変わらずあのオーラはなくなってしまっていて悲しいのだが、それに美しいとも言いがたいのだが、映画の中で「美しい」と言われ続ける女子大生を演じている30歳。ううう。顔が伸びてしまって、痩せこけてしまって、あのりんごみたいなほっぺたにこいしていた我々は打ちのめされたのですが、わたしはMなので、そんなアナもまた好きでした。アナがこんなになってしまって!みたいな。絶世の美女になられても困るよなあ、とか。あのままでかくなったらちょっと大変ですよね。どんなんだ。安達祐美みたいになったのかなあ。安達祐美は存在の子役ではなくて演技の子役だったと思うのだが。間違いなく。「同情するなら金をくれ!」だもの。エリセの次の作品の「エル・スール」の子役2人はやっぱり「存在」だし、ミツバチの姉役も「存在」だし、エリセ作品は大切なものを大袈裟な「演技」で潰さないように繊細に作られている。3作目はもはやドキュメンタリーだし、4作目(?)は10分間の宝石箱のような小品(もはやそこには「俳優」と言うものすらなかった)だった。だれかエリセに大金を渡して次回作を作らせてあげてください。トラン・アン・ユンにも大金を渡してあげてください。でも、こういう監督たちは金がないという状況を逆に生かしたりするからなあ(ヴェンダースパリ・テキサス」は金がなかったから設定を変更し、それが大成功したのだった。エリセは絶世の美映画(なんじゃそりゃ)「エル・スール」を、資金不足で完成させることができず未完成のまま公開した。しかしその未完成っぷりが逆に美しさをうんでもいる)。