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Diary of K. Watanabe

ロメール/冬物語、再び、そしてネタバレ

ロメール冬物語の残酷さは【以下ネタバレのため、見ていない方は読まれぬよう】、主人公があまりにも真っ直ぐに愛を信じることができるような、徹底的に幸福な失敗で関係を断たれたことで、もしこれがあそこまで徹底的な失敗でなく、すこしでもフェイドアウトしかけた関係であったなら、あるいはもし手ひどく振られていたならば、彼女が会った瞬間から前に会ったことがあると感じた運命的出会いは、一方的で狂信的な片思いになってしまっていたところで、もし、もしたとえば、アメリカに渡った恋人と、手紙だけ関係のなかで関係が続いていたとしたら、彼女だけが強く運命の愛を信じ、恋人が新天地で新しい恋人を見つけ始めているのに気づかず、重いと思われて、突然別れを突きつけられていたら、ということで、彼女の再会後の行動、つまり邪魔したくないから逃げる、というあり得ない謙虚さは、もし片思いであったとしても、彼女が恨んだりストーカーになったりしなかったであろうことを示してもいて、そこがこの映画のもっとも聖的なところだと思う(ほとんど気づかなかった)。彼女は逃げたのであり、あの信念にも関わらず、彼の幸せを先に置ける人物だったのであり、その一点だけをもって、彼女が自己中であったという批判をわたしはすることができない。恋人たちにも、究極の愛が以前にあったことを隠そうともしていないし、恋人の一人ロイックは、なんと探すことを徹底的に手伝うことまでしている。ロイックは教会で、本当に心の底からフェリシーのシャルルとの再会を祈ったと私は信じる。それが再会の実現に寄与したはずだと。だって探すの手伝ってたし。フェリシーのバス逃げとロイックの手伝い・祈りから、これが自分の信念の物語だけではなく、他者もふくめた信念の物語であることがわかる。二人があまりにも正しいので、フェリシーの夏の記憶を、シャルルがなんの疑いも持たずに共有できていたという奇跡は、すでに、徹底的で致命的な災難によって、幸福にも最初から確保されていて、その後の再会など、奇跡の続きでしかなかったのだということ。フェリシーとシャルルが出会えなかったとして、それがなんだというのか、二人が鏡合わせのように、べつの恋人たちを作りながら、やはり運命の人のことを記憶していたとするなら。そこにこそ、この映画の残酷さがある。圧倒的にただしいフェリシーには、圧倒的に両方から絶たれた記憶がちゃんと用意されていて、シャルル側も、ちゃんと新鮮な記憶がのこっている(フェリシーの気持ちが気持ちが離れた彼の重しになるような事態になってない)。正しいものが正しく幸福になる映画で、見るわたしは、いっぽうで不正なわたしが不正に不正を重ねている人生のように思えて、「ロスト・イン・トランスレーション」を見終えた時の怒り、すなわち、「なんだかんだ言って主人公はこの後有名な監督になったじゃないか」(あるいは女優)という感情を久しぶりに思い出した。「ロスト・イン・トランスレーション」はべつに幸せになる話でもなく、怒りは虚構の何者にもならない不安にたいする、見る側が今感じつつある何者にもならない本物の不安が釣り合わないことであり、「冬物語」に対しては虚構は虚構として(あるいは真実としてでさえ)堂々としているだけにその種の怒りはない。主人公に一筋の不安もなく、なによりも清らかで透き通ったヴィジョンがある、そして反対側に鏡合わせに、語られない彼の側でも似たような信念がある。ロイックと鏡合わせに、マリー・リヴィエールがいる(聞いた物語は全然異なるものだろうが)。ロイックがマンスプレイニングをしているように感じる人もいたようだが、わたしはロイックはほんとうにフェリシーを馬鹿にしていない、あの、君は読まないでもパスカルプラトンの哲学を体験で知っている、という尊敬は本物だと思う。ベルナデッタ・スピルーに恋をしてしまったならもう仕方がないわけで、それはロイック自身の選択ミスというか、聖人を好きになっちゃったから仕方ないわけで、なんでも本の中からフェリシーの言動の引用を見つけてしまうあの知性は、その滑稽さや愚かさを自認していたはずだし、なんだって引用を見つけてくるに違いないとフェリシーがいうとき、その言葉の正しさを、なによりフェリシーから来たことによって(あるいはすでに自認によっても)悟っていたに違いない。自分にないものを追い求めてしまうロイックという人物のこの物語の後のことも、やはり考えざるをえない。おそらく、あの本について議論を重ねた女友達みたいなひとと一緒になったほうが、幸せになったと思うよ、と思う。幸せな人のための幸せな話をまざまざと発見したロイックは、その後彼女のために祝えただろうか。彼のことだから祝っただろう、しかし心の底からかどうかは、教会内なら同様に、本人ですらシュレ猫状態ではなかったかしら。

 

フェリシーのバス逃げにたいしてシャルルが「ちょ待てよ」をかますのだが、これは「ちょ待てよ」界において史上最高・空前絶後の「ちょ待てよ」だと言われている。

エリック・ロメール/恋の秋

冬物語」の衝撃から立ち直れていなくて、目もしばらく涙が枯れたみたいに眠い続きだったのだけれど、、、冬物語のいろんな人の感想をよんで、わたしは主人公に没入しすぎたし、共感しすぎたのだと他の人と比べて思った。今まででベストロメールと思ったけれど(半分も見ていないけど)、たぶん個人的な感想。主演シャルロット・ヴェリーが最初から最後まで凄すぎたし(こんな自然な演技を見ることがあるだろうか)、しかもその娘(五歳)役も同時に最初から最後まで凄すぎた。こんなことがあるかね。

 

冬物語」は、須賀敦子が、教養はないけれど信念が強い可愛らしい少女として書いていたベルナデット・スビルウそのもののように思われた。一方で、ふと現れるマリー・リヴィエールの表情が気に掛かって(リヴィエールがロメールと共同監督作として随分後にヴェリーを撮っているのは興味深い)、マリー・リヴィエールが主演の本作も見たいなと思った。そしたら共演のベアトリス・ロマンのちょっと不機嫌な表情が面白くてたまらなかった。泣く話でもないけどちょぅと泣いた。語り口がここまでくるとうま過ぎる気がしなくもないけれど…。ロメールの周りにはいつも若くて美しい女優がいて、彼が若手女優俳優を好きだったんだろうなと思うのだけど、ここで出てくる(元)生徒に手を出す哲学高校教師が「歳をとるほど若い子を好きになるのよ」みたいに言われていて、ロメールじゃないのかと思った。この作品は珍しく若手女性俳優を主演にしていないが、癖のあるキュートな脇役をアレクシア・ポルタルがしていてとてもいい。

 

シャンタル・アケルマン/一晩中

これはちょっと眠かった。ものがたりを語る気がないのだと気づくのには暗すぎたためにか遅すぎた。同じ場所を写すから関連性を探すのだけれどもともと人の顔がわからない人だからわたしのせいだと思っていたら本気で関係ない人たちを同じ場所に連れてきては短い抱擁や引き留めや別ればっかりやっている。そういうものだと気づくのが遅すぎて、

すでに眠かった。

同じ曲が流れて踊るのだけど、踊ってる人も違うし、その曲がいまにも加山雄三がでてきて「ふたりをーゆうやみがー」(君といつまでも)と歌い出しそうな音形であり、頭の中の若大将(よく知らない)が「幸せだなァ」を言い続けて、わたしは眠さと戦い続けた。わたしをー ねーむりけがー つーつむー

エリック・ロメール/冬物語

フェアリー・テイル。前も後ろもなく泣く。現代のベルナデット・スビルウの物語。Par hazardということは、災難という意味ではないらしい。あるいは幸せな災難だったのではないだろうか。一通り泣いてから、マリー・リヴィエールが目で語った物語を考えている。

大きく背中のあいたワンピースを着て、後ろにくくった湿り気のある短い髪に、迷ってたどり着いたような小さな顔で、それが一つの名詞みたいにまとまって離れずにあった、梅雨が来たのだ、そこだけに

シャンタル・アケルマン/街をぶっ飛ばせ(1968)

まず何にせよシャンタル・アケルマンの声が綺麗でかわいい。出鱈目に歌っている映像と必ずしも同期しないアフレコの歌で成立してしまっている(一方で擬音語みたいなのも言っている)。「ジャンヌ・ディエルマンをめぐって」を見た時に驚いたのは、あの映画から感じ取った骨太さからとおく離れたシャンタル・アケルマンのまるで子供のようにかわいい声で、意識されない偏見というやつなのだろうけれど、デルフィーヌ・セリッグが低い迫力のある声でロジカルに詰めてくる時に、シャンタル・アケルマンのラディカルな説明が時に沈黙の後か弱い声で返されるのを見ていると、セリッグが一方的に正しいような気もしたが、いま、この処女作で若いアケルマンがほぼジャンヌ・ディエルマンの台所と同じサイズと同じ配置の台所で出鱈目な家事をやっているのを見ると、あのときアケルマンが言っていた思考や感情を演技に乗せたくないという言葉の正しさも分かってきた(メイキングの感想に追記した)。これは1968年という年を鋭い感性で捉えて、イロジカルに演じられた狂った家事であり、カメラはやはり感情を抑えて客観的に捉えようとしている(しかしジャンヌ映画ほど位置を小津的に徹底してはいない)。ジャンヌが痙攣的に手早く済ませた靴磨きを、ここでのアケルマンは本当の痙攣的に、衝動的に、ふくらはぎまで炭を塗っていく。そこに思考や感情があるはずがない。この衝動、思考の無さや感情の無さは、例の表象できないというアウシュビッツの生き残り(の娘)としての表象ではないか、ジャンヌ・ディエルマンとしてのセリッグに求めていたものも言語化されなかったかもしれないがそのことではないか(しかしこれも偏見かもしれない)。しかしこれは台所映画という意味でジャンヌの原型であるし、やたら粉も巻くし、銃声など聴かせて、発作的であることは確かにゴダールの影響なのだろうなとおもうけれど、カメラが冷静でいることや、次の「家からの手紙」の全テキスト棒読みかつ長回しストローブ=ユイレの影響もあったのではないかという気もする。なにしろ面白い人だなと思う。繊細な暴力性はキラ・ムラートワの長い見送りで感じた感動に似ている気もするし、これも意識されない偏見かもしれないし。