circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

この世でいちばん大事な「カネ」の話(西原理恵子)

良い本。そうかなあ、と首をひねるところもすこしありつつも。

 

貧困が循環するということ、「どん底」というほどの貧困がおそらく現在も地方都市を中心に(もちろん東京にも)存在し、人々から選択するという思考を奪っていること、がサイバラさんによって丁寧に語られる。わたしはどうしてもわからない。ある人々は、現在、発展をへた日本経済において、機械化や情報技術が人間の仕事を基本的に代替してくれるようになった世の中で、人間は創造的な、感性的な仕事を自由にアーティスティックに行っていくことができるのだ、という。カネカネカネと、いかに稼ぐかを中心に考えるのではなく、カネじゃないでしょう、どう生きたいかでしょう、あなたの気持ちを大切に。才能を大切に。という人もいる。だけど、現在、そうなっていない。わたしにはわからない。なぜその進んだはずの経済や文明の中で人はまだ貧困に苦しむのか。

 

そしてサイバラさんは二人目の父親の死の後、母親の汗と涙の結晶である100万円を握りしめて上京し、絵で生きていくために予備校に通うも、成績は最下位かそこから2番目かで、そういう順位になった人は才能を否定されたように感じ、予備校に出てこなくなる(それを「寝たきり浪人」という、部屋から出てこないために)。サイバラさんは元手の100万のありがたさが彼らとは全然違うし、退路を断ってきているから、寝たきり浪人になるわけにはいかない。「最下位なりの戦い方があるのだ」と言い、エロ本のカットを書き、技術的には上手ではないと評価された絵を個性に変えていく、具体的にはコラムにたいする突っ込みを例のでかい文字で書き、絵の方はむしろ付け足しのような面積の使い方を始める。最初から戦略があったわけではなく、徐々に外部からの意見や、それおもしろいね、というような評価が、サイバラさんに方向性を教えてくれる(「他人が、キミのことを教えてくれる」。)

 

わたしが受け止めた大きなメッセージは、まず貧困のループから出るためには自分で稼いだお金という実感が必要だということ。貧困のループ、思考の狭まるどん詰まり感からのがれるためには、働いて、じぶんがしっくりくる世界をつくっていくこと、そうやって得たカネで買いたいものを買い、食いたいものを食えることが「自由」だということ。(もしそれが自分で得たカネではなく、他人のカネであれば、どこかで必ず自由が制限されてしまう、という示唆がある。身に覚えがすごくある。)

もう一つのメッセージは「収入とストレス」と「収入とやりがい」のバランスをどこにとるか、ということ。果てしない「やりたいことがわからない」自分探しは、とりあえず外に自分を投げかけて、自分のダメなところやできないことを知っていく中で、ときには逃げたりしながらも(自殺をしないために)、「次の一手」をつねに打っていく(それには休憩も含まれる)こと。人に喜ばれることをできるなら、それがカネという形で(高額でなくても生きられるだけ)帰ってくるのなら、それで疲れは忘れてしまえる。

 

ただ、やはりわたしはファン・ゴッホのことを考えている。生きているうちに才能が認められなくて、カネが得られなくて、それも彼の自殺の一因ではあっただろう。かれが「最下位なりの戦略」を打って、カネを得ていく生き方をすれば、どうだっただろうか。一方で、評価されなかった、売れなかった画家としては考えられないような人脈を彼は生前に持っている。「山月記」でいうところの「進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった」わけではない。レッスンを受けているし、なにより、ポール・ゴーギャンと例の破滅に終わる同居までしているわけで。最下位にいながら芸術にこだわったゴッホのことは頭の中に引っかかる。おそらくは、時代がゴッホゴッホたることを要請していたのだとぼんやり考える。あの時期にゴッホがあの画風に至る必要が、あの時期にこそあった。もし彼が生まれたのが50年前でも50年後でも、(もし同じ絵を描いていたとしても)死後の受容は異なっただろう。

そして、「自分がやりたいことがわからない」日本の子どもたちに対して、「働けることのしあわせ、働く場所があることのありがたさについて、考えてみたことがありますか?」と問う著者に、「アジアの貧しい国の子どもたちは、自分のためじゃない、家族のために働いている」と対照させる著者に、異和感を覚えるのだった。私はぼんやり考える、カンボジアにはカンボジアの地獄があり、日本には日本の地獄がある。1年に3万人の自殺者がいるとして、仮にこの数字が変わらず、全員が同じ年齢で自殺を考えると仮定すると、ざっくり100万人毎年卒業する小学生の3%が自殺することになる。一クラスが30人ならクラスに一人は将来自殺することになるだろう。

 

働く場所に恵まれた日本で、自殺する将来はコントローラブルなのだろうか。自分がコントロールできることをコントロールしなかったことの罰として自殺があるのだろうか。