circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

眠れない。


深夜の散歩、怪物料理の名コック。近くのセブレまで。ふらふらにあるきながら、映画「親密さ」の、とんでもない夜の散歩のシーンのことを考えた。右下から橋を渡る男女の背中をあおるカメラが、いっしょにいつまでも橋を渡っていく、男女の背中も、橋も、ただ黒い影。僕が、それは、いつかとらなくてはならない、とられなくてはならないと考えていた、リバーズ・エッジの最後の二ページのうち、見開きに橋を渡る絵が確かあった、夜で、影でしか人も橋も分からない。あれは、とられなくてはならないシーンだった。そして、もうそれはとられたのだ、と思った。唐突に。不意討ちに。若い男女が、ごたごたしたあとに、橋を渡りながら、語るともなく語ったこと。「そこに音楽などないこと。」(グッジョブ!!!!!)退屈なはずのところへ、飛び込めば、緊張があり、飽きないのだ。音楽をいれるのは、つまりその退屈させる恐怖に、負けるということだ。


映画に、とつぜん協和音、それも主和音が鳴り響いてしまう時の、チープ感、意味付けの押し付けについては、誰かが書くべきことなんじゃないか。映画における和声学。なぜある音楽たちは、入るとき、入りの瞬間に興醒めではないか。その機能和声や、構成音数や、楽器のことなど。おそらく、ドミナント、トニックはまずいだろう。一声部ならともかく、二声でトニック決められたら冷めるしかないであろう。それは、流れをせきとめることだ。音楽を堰き止めて別の音楽を入れることだ、映像が音楽だという、たけみつのことばを借りるなら。音楽は、その映像の音楽が弱い時だけ付加されるべきものだ、という彼の主張、映画音楽は引き算でつけていくもの、という彼の繰り返された主張は、ハスミ先生の批評が映画に与えた影響に比べ、あまりにも、あまりにも、怒り狂うほどあまりにも、無視されている。