circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

https://m.soundcloud.com/larissa-gouveia-2/sergio-odair-assad-jardim
ジャルディム・アバンドナード ということばの響きだけ
見捨てられた庭ということの 純たる音化



http://youtu.be/PcXsFwfGmn8
やっぱり、とめどなくないてしまった。
みんな見てほしい、日本人も、アメリカ人も、そうでない人たちも。
泣くということを、画面の前でまともに見てしまった。笠智衆さん。尊敬します。




http://youtu.be/oA4oOLvKj4w
大きな謎は、多声音楽、和声音楽からみて、あまりに声の少ない彼のギター曲が、かれのピアノやオーケストラより、ずっと歌が豊かで、ずっと風景が見えることだ




http://youtu.be/w0hqbb3pCeM?t=25m29s
assad兄弟がカバーしている、「見捨てられた庭」は、組曲「殺人された家の記録」、たぶんクロニカ・ダ・カーザ・アサシナーダ(Chronica da Casa Assassinada)と発音するのだろう、どちらにせよなんと言う美しい名前なのだろう、ポルトガル語というのは、ウィキペディアにある通り、最後の、粗野で美しい花だ。


「スペインの作家セルバンテスポルトガル語のことを「甘美な言語」と、ブラジルの詩人オラーヴォ・ビラックは「ラティウムの最後の、粗野で美しい花」と評している。」


殺人された家の記録は、25:29に始まり、アサド兄弟の先ほどのカバーは30:07から(なんと美しい5拍子)。だが、わたしはとてもいいたい、その次の曲(33:20)に打たれている、と。3拍子でチェロの下降する嘆き(33:49)と訴えかけの後に、ジョビンが入れるピアノの拍が余る感じ。誰がこんな字余りの嘆きをクラシックの世界で行っただろうか。誰も知らない。そもそもチェロの嘆きの前、冒頭のピアノソロが入ったときには4拍子だったはずだ(33:20)、ところが自然に3拍子に変わっている(33:40)。その3拍子のまま、チェロの嘆き、そしてピアノに移ってもその嘆きは3拍子の中におさめられるはずだ(チェロが終わる前にピアノの嘆きを埋める)。それがクラシックの手法だろうし、あるいはチェロが終わってから1拍子の間(つまり最後だけ4拍子になる)と言うところまでは、感覚としてクラシックで聞いたことがある。しかし、ジョビンはここで5拍子にする。誰もいない中ピアノに長々と2拍を歌わせる。このとんでもない、とんでもない半音階下降のなかのためらい(34:02−04の長い長いD?の音)。これは、とんでもない、とんでもないことだと思う。34:37でオーケストラの衝撃よりも先にピアノの衝撃音が走る、この一瞬の、衝撃、と、このとんでもない和音(クラシックで聞いたことのないもの)。



https://www.youtube.com/watch?v=Gl3eGddgMDI
まっしろな夏のにおい。
年齢もないときの記憶。
性もはじまる前の。
0:50からはじまる歌。
1:27からもういちど歌われる歌。
魔法の手、ということばをセゴビアの一瞬のビブラートには思う。(1:33、2:04)



かれはいう、「まほうをみせよう」
人が集って、耳を傾けて、いつまでも続く夜が、かつてあった。
いまは、ない


ぶらじるに行きたしとおもえどぶらじるはあまりに遠し