circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

菊地さん嵐が丘を聞いていて、中間部の歌の部分、ださいとおもうけど、そこにある十拍子の感覚みたいなのすごくて、基本的に五拍子のこの曲は、五連ぷが五回続いていくというフラクタルなかんじのところ、歌がはいって、五性は残しつつかなり意図的に偶数性を帯びる。最小単位は五連ぷではなく四れんぷすなわちただの八分音符になる。シンコペーションはしてるけど。だから偶数で体を刻むと、余計な一拍があってコケる。十というこの単位の、なんという、尺のたりなさ、世の中が十しんほうであるというのに、というのはみないうが、その十の変さについて、取り組む意義は考えたことなかった。そのあと、このタンゴ的シンコペーションの4はく*10回の構造が、5はく*5回の構造二つ分、とクロスする部分は、ちょっと頭混乱するけどすごくうまくあっててびっくりする。
だけど、やっぱりなにかださくて、ルパンのほうの新嵐が丘ではそのだささが消えているのは、あのナレーションがない限りだが、やはり、あのナレーション、ニコ動でタグ付されているとおり、SK-II性なのだと思う。思うに、菊地しはときどきその種のタグ付されてしまう容易な不用意なだささがあって、たとえばSK-IIといわれてあーそうだよねという、型へのはまり方をしてしまう、一方で、型を作っていくときの彼は超かっこいいのに。で、新嵐が丘についていうと、あの歌部分を切ったこととチェンバロだとおもう。ボサノバにチェンバロをいれたときに、ここまで彼のチェンバロ発想がいたるとは想像できなかったわけで、ボサノバチェンバロはこんなにはよくなかった。