circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

安静にしていろといわれて喜んで現代詩フォーラムを読み漁ってる僕はアホですか。アホですね。こうやっていろんな人の書いている詩を読んでいると、僕がときどき落としていく言葉のいかに詩ならざるものかということについて深く考えざるを得ません、たいていの人には一貫して文体というものがあり、その文体というものがなんとなく成長していき、それが、なんというか、文体に限らずテーマとかもそうなんだけど、要するに一貫性というやつで、しかしながら分裂しまくっている僕には一貫性というものがないと思われるんです。自分を一貫させるのが怖いのです。いつも。いつも。分散していたい。できるなら遍在していたい。裏返していうと、存在したくない。一貫するということは、在るということ、有るということだと思うのです。だけど、僕は無いということに惹かれます。「わたしは無い。」それが鬱病からくるきもちなのかどうなのか、僕にはよく分かりません。すくなくとも、あまり魅力的な人間像ではないのは確かです(自己否定も鬱病の症状のうち)。立ち居地、座り位置、移動位置、について考えたとき、わたしは、やっぱり遍在していて、確率的であって(典型的に胡散臭い量子力学のレトリック)、その「位置」についての解が求まらないのです。運動量は?はちゃめちゃです。