circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

( ) 1

、(siを弔うための
、(詩集を出したらいいのに、(そしたら病気がよくなるかもという文脈で)、と神戸に住んでいる(ta?)好きな詩人が言ってくれた、そう言う彼はもうnetに詩を載せないで静かに自分で詩集を編んでいる(ta?)
、(僕が詩(si)のようなものを書こうと大学時代にしていたのは、僕自身が死(si)なないようにするためだったのだけれど、それは逆に僕をsi に向かわせる行為だった、つまりネガティブフィードバックだった。鬱の人は何かを表現しながら自分を出していく人がいる、僕は河合隼雄を読み過ぎたのかもしれない/表出法として言葉を用いることが危ないと気づいたのはずいぶんあとのことでもう後戻りできなかった、鬱にはさまざまな要因があって遺伝も否定できない一つの要因に違いなく
、(僕にはなにもできなかったのでとりあえず浮かぶものを言葉に出してみるしかなかったそれを僕はとりあえず詩のようなものと呼んでいた、神戸の詩人が言っていたのは、ネットという媒体は詩という媒体とシナジー的にやばいということだったんじゃないかとかってにと思う、ネットというのはどこに届くかわからない媒体で、しかもリアルタイム性がある、がゆえに、自分にわけのわからない循環が生まれる、誰がよんでくれているだろう、どんなことをかんがえたのだろう、そして実際に反応が帰ってくることがあり、ときに感動をされることがある、でもそれを期待することは危険 危険
、(という意味で、詩は恐ろしい。思考は言葉で回っている、病気のときの思考は自然と狂気を含み始める、だからそのときに書かれる詩というものは凄まじいものになってくる、読む人はそれに共感し表明する、そうすると書く人はさらに狂っていく、そういうスパイラルが生まれるのがネットの恐ろしい一面だ、紙媒体というのはそういうリアクションが間接的だから
、(僕はいちど詩noyonamonoをまとめて詩noyonamono集(あるいは詩集noyonamono?)にして僕の病んだ言葉たちを埋葬するべきなのかもしれない、そして父か母に学ぶべきなんだろう、父も母も多分自分を賭けていままでやってきたことを息子に教えるのは喜ぶだろう、僕はずっとそれをしてこなかったし、思いつきさえしなかったのだから