circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

高田馬場へ、アレクセイ・ゲルマンの二作を見に。
アテネフランセの坂を下りていく時の、坂・空、そこにあの人がいて、ゲルマンの映画のことを話しながら、主人公マシンガンであらぶってたね、みたいなことを言ったような記憶。記憶だけ。ときどき思い出す空気感は、それが風景で、あの人自身が映画だったことを思う、あの人自身が詩であったように。忘れないこと、ときどき、こうやって思い出すことが大切だと、勝手に思う。私は、代わりに生きなくちゃいけない。記憶はもう、フィクションとの境界線を失い始めている。


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物語の中へ生きると、死ぬ以外の選択肢はないように思われる。退屈で、ありきたりな、やりたくもない仕事を、それでもなにかしら楽しみを見出してやり過ごしながら、もう一つの物語を副旋律のように聴いている、そんな生き方にギアをチェンジした、できた、ことを、少年に報告したい。堕落したのだよ、絶望を通り抜けるのは危ない経験だったよ。


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萌え、という言葉が一番近くなる。カプースチンの古風な組曲
https://www.youtube.com/watch?v=3Ybg0jepQpU
自演
私が一番萌えているのは4曲目のブーレ、10:05-。萌え、という言葉しかない。最初から拍をふぁ・ど・ふぁ・し・ふぁと思って取っていると、10:08あたりで裏拍になっているになっているのが第一の萌えポイント。そこを平然と駆け抜けていく感じ。これでもか、ってやらないところが、萌え。10:08で高音にれ#みー、って入る装飾のジャズ。そのれ#のほうの重さ(楽譜ではもしかして、ふつうの8分音符として書かれているのではないかと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=caLibL5J-WM
たとえば、このかたの11:23からの演奏だと、冒頭のふぁ、に強拍間がないぶん、裏返るときの利き手の驚きが少ない。11:29に例の高音でのひっかけ部分がでるのだけれど、左手のほうの装飾に集中されていて(そこでテンポが緩む)、聴いていて右手に気がまわらない。自演ではここの左は「いつものことだよ」程度に処理され、右のジャズ的パラパラ観が重要になっている。
自演の10:11の右手二発の「何でもないことだよ」的な軽さもまたかわいらしく萌えで、一発目と二発目の重さが変わらない(むしろ二発目が軽いと解釈もできる)ところが萌えポイントなのだが、おそらく楽譜には二つ目のほうを長めに書いてあるのか、
この方の0:10も(https://www.youtube.com/watch?v=SNuI3_nCrKE
この方の11:31も(https://www.youtube.com/watch?v=caLibL5J-WM
この方の6:37も(https://www.youtube.com/watch?v=HO72IboJjpE
この方の11:43も(https://www.youtube.com/watch?v=mA2BVWUXcqw
二発とも重すぎたり、二発目が長かったり、歌いすぎていたりして、カプ自演の「軽い萌え」が感じられないのだが、これが楽譜というものの限界なのか、カプがやっていることが楽譜の本質を見通せば(楽譜に書いていないことを演奏してでも)演奏者が到達できる場所なのか、それともカプ本人が曲自体を変えてしまったのだ(だから演奏者が楽譜を読み通すだけではたどり着けない演奏なのか)については考える余地がある気がする。ちなみに私は「曲の本質が楽譜のディテール部分に反する形でしか表現できないことがありうる」という立場である。(つまり書いてある通り弾くと曲の一番の萌えにたどり着かないこともあるのではないか) モンポウカプースチンという二大自演巨頭はそれを教えてくれるようなきがする(どんなピアニストも本人の伝えている「核」の部分を少しも伝えてこない。もちろんその「核」をどう聞き取るかは人それぞれなのだけれど…演奏者はもっと作曲家自身の録音を研究して、いいところは真似たうえでそれよりもいい演奏を目指すほうがいいのではないだろうか?)。一方、ラヴェルフォーレスクリャービンのピアノーラ録音はそれを伝えてくれるものではない、機械の制限上いろいろなニュアンスが抜けるのはもちろんだと思うがわたしが理解できないのはテンポ感覚であり、ひょっとして録音時にローラーを回す機動が均等に動いていなかったのではないか?と疑いの目を向けているのだけれど、だれか研究している人はいないだろうか。たとえば作曲家自身が、録音を聴いて「いや、これはテンポが狂っている」と言ったとか、そういう記録があれば安心するんだけれど。
そして1回目が終わって2回目が始まる(自演10:16)前の、1回目の終え方がまた萌えとしかいえない左手のふぁみっふぁみっというのがあって、これはさっきの右手のオクターブ二発の相似形だと思う(二発目のほうが軽く処理されている)。そしてとくに思わせぶりなくそのまま2回目に突入する、この「普通の顔をしてボケる」感じの面白さ、が、萌えで、ここを解説するような弾き方をしてはならないのだけれど、クラシックというのはたぶん、解説することなんじゃないかと思うから難しい。
この方の11:36は「終わりましたよ」と言ってしまっている(あるいは次が強いから気が次に行ってしまって適当な処理になっているのかもしれない)
https://www.youtube.com/watch?v=mA2BVWUXcqw
この方の11:37は軽く終えているのだけれど、次の始まりも弱いので、自演の何事もなかったような顔で突然始める萌え感はない。
https://www.youtube.com/watch?v=caLibL5J-WM
自演の10:38の和音はおしっこを漏らしてしまいそうなぐらい素敵な萌え和音なのだけれど(ひだりての低音和音を掴んでいく感じ)(腰に来る)、冒頭の拍が弱拍初めかどうかは分からないけれど、ここでは完全に強拍であって、本人は最初からその感覚でひいていると思う。
自演、10:54からの左手みみbれというので次の世界へ入っていく(カプースチン特有のお喋りな感じのパート)のだけれど、その突進力、え、あたらしいところへ今入っていったの、というまた平然とした顔をしている。ほかの演奏者はここが「今から入りますよ!」とみれbれにアクセントをつけてしまうのは、やはり楽譜に書いてあるからだろうか。そこがちっとも萌えないのだ。自演の10:59の二発についても、第一部の二発と同じもので軽く引かれているのだけれど、ほかの演奏者になるとなぜかペダルを踏んで歌ってしまったり、歌ってしまったりして、それはカプースチンの本質というか核である「おしゃべり感」の萌えを激しく損なってしまう。わたしがカプの本質がおしゃべり感だ、というのは私の見立てであり、彼らの見立てではないのだろう。
クラシックの中にこのようないつまでもしゃべるおしゃべり感を持つものはスカルラッティとバッハ以降現れなかったと思うのだ、そしてその意味で(ジャズの文脈は必要なく)カプースチンは私にとって救いだし、萌えなのだ。
そして一番のこの曲の萌えポイントは11:31のれふぁらどーと登っていく右手の子供が突っ走っていくような無邪気さなのだけれど、この子供が階段を駆け上っていくような萌え感覚もまた、他の演奏には見当たらない(上った後すこし上で休憩してしまう人、登っていく途中で弱くなってしまう人とか)。
突っ走っていく子供の駆け足感、は、ほんとうに素晴らしく人間のロマンを追い求めてしまうロマン派以降のクラシックピアノの考え方では表せないものなのだろうか。
カプースチン自演のこの部分の無邪気なおしゃべり感、駆け抜け感はむしろジスモンチのこの作品に近いものを感じることもある。
https://www.youtube.com/watch?v=v2jZDxoHCqs
あるいはこっちも?
https://www.youtube.com/watch?v=91LZeCiWUaA


疾走するカプースチンを追いかけて、
愛すべきカプースチンを追いかけて、
雨フル新宿を駆け抜ける、カプースチンカプースチン
あなたのしゃべくるお口は無窮動、
たかたか踊る10本の指はもはや蠕動、
ああそして雨フル町に高鳴る鼓動、
あたし生きてる 走ってく足、空への律動!
山を走るのではない、山が走っているんだから、
どうして君が動けないはずのあるだろう、
山のあなたに住むと云ふ仕合せはもう山との相対的関係を失ってしまったよね、だから
君は走る、僕も走ろう ペルペトゥウム-モビレ、ドンドン!