circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

生きていて、それでも、それでも、生きていて、ふと、それでも生きていてふと、ふと美しいなとふと、思うことがあって、そんなに何回ではない。一日に一度ぐらいあって、そのことを書いていくということはとても大切なことだし、うれしいことだし、それが時代から見て取るに足りないものだったとしても、いまこの時代にうまく話せる事柄ではなかったとしても(たとえば「ありがち」と思われたり、だとか)、恐れずになんとか言ってみるというテストは有効ではないかと思う。今日、久しぶりに見た手紙の縦書きの字が歌っているようだった、もう会えない人だけれど、生きているかな、音楽がこの世に生きているんだと思う(生きているといいなと思う)。昨日から池袋の街を毎夜歩いていたオーストラリア人の華僑の女の子(同居人)のことをずっと思い出していて、昼夜逆転すれば落ち込むはずなのに、毎日昼夜逆転させては人生のなつやすみを鬱することなく、楽しげに池袋夜散歩に充てていた彼女はいったい何だったのかということを考えていた。彼女はいつも楽しそうだったし、彼女の英語を横で聞いているのがとても、とても楽しかった。あまり長い時間一緒にはいなかったけれど。彼女がかわいらしい英語の中で急に舌足らずな日本語を同じスピードで話すときのかわいさのこととか、いつも悶絶していたのだけれど、その悶絶は恋ではなかったし、友達でもなくて同居人というべきなんだけれど、あの時代はとてもよかったなあと思い出していた。