circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

life is priceless

昨日はなんだか夜、かなしくて、すごくかなしくて、ものすごくかなしくて、くもの糸を引っ張るように、誰かに頼りたいって、電話という名の糸を引っ張り続けたけれど、どれもつながらなくて、かなしくて、ふとおもいだした6年前の友だち-本当にたまに話したこともあれからあったけれど-、2時間ぐらい、ずっとはなして、迷惑をかけたけれど、迷惑をかけさせてくれる優しさになきそうになって、かなしさを忘れてしまいました。友だちはお嫁さんになったせいか、6年前よりもとても幸せなにおいがして、6年前喧嘩して一時疎遠になったことを懐かしくはなしたり、今の生活のことを話したり、していた。いつまでも、生きていようと思った。


実家に帰った。ふらふらとしていた。頭の質量がとても大きく感じた。頭を胴で支えるのがつらい。


障害者の伯父が死んだ。伯父は幼少時代は普通だったのに、育つにしたがってだんだん、知能障害だということがわかってきて、関東地方の、当時数少なかった知能障害系施設に入れられて、そこが酷いところで(人として扱ってもらえないような環境だったみたいだ)、もともと彼にできたことがだんだんできなくなっていって、いろんなことのやり方を忘れていって、うーうーうーといつも唸っていて、蝉をつかまえて食べたり、自分を殴って前歯をおったり、施設からずっと出ることのないまま一生を終えた。


僕は伯父と人間の言葉を交わしたことはなかった。伯父が少年時代の僕をどう認識していたのか知らない。少年時代の僕は彼をなんだか気持ちの悪い人だと思っていた。彼の後のお風呂に入りたくなかった、と思っていたことを思い出した。ごめんなさい。石原慎太郎都知事が、ある障害者施設に行った後に「文学的な問題として、こういった人たちが生きている意味があるのかどうかということについて考えたい」というようなことを発言していた。意味のある言葉を発することができず、常にとなりで介護する人が必要で、都や国は彼らのためにお金を払っている。そういった人たちが生きている価値については興味深い問題だ、という発言だったと思う。わたしは彼の問いを頭ごなしに否定したくない。問い自体に罪はない。答えに罪があるとしても。少年時代の僕は伯父のことを気持ち悪いと思っていた。何が楽しくて生きているんだろう、どういう生き物なんだろうと思っていた。今、僕は石原氏の問いに対して、できるだけ大きな声で"JA!"と叫びたい。罪を背負って生まれてくる人はいない。たとえそのひとが話せなくても、動けなくても、知能障害があっても、意味のない生はない。祖母は伯父を愛していたし、伯父は祖母を愛していた。たとえ伯父が自律的に動く人でなかったとしても、彼は立派にノードだった。彼がいることでつながった人がいる、彼がいることが誰かと誰かをつなげ、誰かの人生を変え(彼は祖母と母を大きく影響している)それが僕に大きな影響を与えている。祖母は知能障害の息子と聴覚障害の娘を連れて何度自殺しようと思ったか、知らないという。二人の子供をつれて気がつけば町をふらふら歩いていたという。祖母はそれを通り抜けて、今幸せそうに生きている。母も「健常者」と結婚して、離婚したけど、「健常者」の子供を三人立派に育てて(一人例外がいるが)、しあわせそうに生きている。


僕は少なくとも原爆を忘れない。母の耳と伯父の思考の一部を奪った原爆を忘れない。伯父と母の生きざまが僕という人間を一部を作ったとすれば、祖母の被爆が僕の人格形成に大きな影を落としているのだとすれば、僕は自分の問題として、決して原爆を忘れない。