circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

紅白の、歌はここにある、とか、本当にそういうのやめようよ、と思ってみていて辛い。どこにもなかった。震災と絡める、歌はそこにある、そうか。メッセージ。メッセージ。メッセージ。そこにある、以前に歌がないじゃないか、と思う。あってもなくてもいいものばっかりだ。ショスタコーヴィチにいた意味がなかったとは僕は思わないが(弦四の緊迫は彼しか無いものがある)、紅白歌なんてまさにそういうのばかりだと思った。


歌なんてここにある性のものじゃないだろう。とおもって、向井さんのふるさとを見て、いまさら知って、思い切り泣いたのは、やはりそこには「歌がここにある」みたいなイデオロギーを言わないことだったと思う。あそこで言われていることが全てで、全てに納得感があって、あれを失った、永遠に失った人がいたのだ、それも人生の最後に、と思った。そしたら果てしなく泣けた。