circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

僕にはあなたしか見えていないということを、たぶんあなたは肌で感じてくれているだろうと思う。僕の感じている未来の不安は、あなたが感じている未来の不安と重なっているような気がして、それはその点についてだ。演技性のことだ。(上記の僕の気持ちの、そして下記のあなたの仕草の、表情の。)演技ではない、というものが、最初に、あからさまにあるときに、真正性が初めにあるときに、一体なにが続いていくのか、についての不安だ。
あなたにはこれを見せないだろう。僕は複数の人を神様の様にうつくしいと思ってきた人間で、あなたにいま神様が降りている。あなたは、とても昔、大切な人だった人が言った言葉と同じことを言う。僕が見ているものは見ていないもので、いつかそうでないことに気づいてしまう、と。その、大切な人だった人について、僕はまだ、そうでな(かった)ことに気づくチャンスがなかったまま生きている、とても昔のことで、あなたが小学一年生だった頃のことだと気づくと、頭がすこし混乱してしまう。
とてもまっすぐに、賞賛の言葉を尽くしたのちに、それがそうではないと、気づいたこともあったから、僕はいまあなたに見ているものが、どちらなのか分からない。でも、あきらかに、そこに天使だとか、世界の奇蹟だとか、この世ならざるものを、とても昔のように、見ているわけではなく、ある、ひとつの、僕が素敵だと思う人としての人(一人だけいた神としてのではなく)が共通して持っている、無邪気に笑う目の美しさを持っていることを強く強く認識している。蒼井さんだとか、もっと強度とすればはしえりさんだとか、がもつ、外の認識がないまま独り言のように動作するということそのままが、狂おしく光ってしまう、あの光をあなたが持っていることは、認めているのは僕だけではないことを僕は知っている。それは、いろんな人から聞いているのだから、これは僕の錯視ではないはずだよ。それでもあなたは、それは勘違いだという、気づかれてしまうと言う。その言いこそが、さっき書いた、一番大切なことである、「外の認識がないまま独り言のように動作するということそのままが、狂おしく光ってしまう」の前半部(それこそが僕にとっての全ての美だ、それ以外にはなにも無い)の証明になってしまっている。それがかまととぶりと呼ばれる何かでないことは、認識なしの演技をしているか、演技ではなくそのままなのかの違いで、それがどちらかは見えているつもりだ。流行から外れて清潔にシンプルに生きている人と森ガールの違いみたいなもので。外の認識なしを認識しているか、外の認識なしを認識していないか、で、あなたは認識なしを認識なしで在る、そのことを、僕ではない人々が、生まれたてのような、とか、ナチュラルボーンなんとか、と、あなたを表現してきたのを、僕は聞いている。それは、幻想ではないはずなのだけど、僕はそのことをあなたに言いすぎてはいけないように思う。認識なしが認識に変わったときに、いろんなものが崩れていく。批評と分析は、完全なそのままとしてのたまごにとって、敵でしかない。