circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

9/15

人はもともと両性具有者だったという。ある日神がそれを二分し、男と女にした。つまり男だけでは不完全、女だけでも不完全。
だから人は両性が結婚し、それぞれの抜けている点をおぎなう。
そしていつしか元の両性具有者にもどろうとし、そして結果、子供ができる。


でも僕は不完全な「男」でいたくはない。<人間>として、在りたい。
だから僕は体こそ男であれ、心は常に両性具有者でいたいと思っている。
あるときは雄々しく、あるときは繊細に。


しかし心が両性具有者であろうとしても、僕の体は、異性を求めてしまう傾向にあるようだ。祈りは本能に敗れるのか。


こうありたいという心とこうありたいという本能が常に喧嘩する。矛盾するんだ!


たとえば将来ぼくが結婚して、子を産むとする。そのとき僕は僕の祈りに背くことになる。
いや、性的本能だけが僕の神への祈りの敵なんだ!


男女間にプラトニック・ラブ(純粋な愛!)など存在し得ない。
《性が関係ないならば、なぜ男女間である必要があるのか。》
結局は性的興味に還元されるのみではないのか!


たとえば僕が人間なぞと結婚も、あんな事もせず、(いや近頃は順番が逆になる傾向があるそうだが、)
一生、両性具有者の貞操を守ったとする。そのとき僕は何を感じるだろう。
心の充実? 純粋な祈り? いや、僕は己の性欲にさいなまれ、苦しみ、自分ののろい、狂人になるだろう。


もし僕が大人なんかにならず、ずっと子供だったなら!!


性欲を知ったとき、はじめて子供は子供でなくなってしまう。
現代は。


昔はそうじゃなかった。ダフニスとクロエを見たとき、彼らが純粋な心でそれを見ていたことがわかる。
現代の僕たちにとって、これは奇蹟だ。
大人の性と子供の無邪気さが共存していた時代もあったのだ。


しかし人間は子供を産むために生まれてくる。人類繁殖の一つの手立てとして。
人々は自分の子をのこすという運命、宿命をもって生きている。
でも僕にはそれがないんだ!! 「生きる」ことのもっとも本質的目的が、
僕にはないんだ。


<何のために>生きる?
僕の宿命は?


少なくとも、僕の宿命は子を産むことじゃない。もっと他の事。
もっと他の、僕だけに課せられた、大切な宿命なんだ!!


それを求めて僕は生きていく。いままでの勉強がふいになってもかまわない。


僕の宿命って何なのだろう。それを考え、求めて、
僕ははてしない旅に出ようとおもう。



*

出さなかった手紙



元気ですか。僕のほうはというと、かかってた風邪もなおって、まあまあ元気。
《カセットの》感想ありがとう。なんというか、胸のつかえが取れたような気がします。ああ、やっぱり分かってくれる人は分かってくれるんだなあ、って。
僕が<一人で>音楽の毒に自分の心を壊されそうになって、むしばまれて、やりきれない孤独にさいなまれているとき、その毒を分かってもらうことは、僕を今の砂漠のような孤独から救ってくれる、唯一の手段だとおもいます。
分かってもらえた事で、僕の心はほんの少し安らぎます。


ラヴェルを聴いてたら、なんか息苦しくなります。あまりに繊細だし。
純粋な少年時代(僕って子どものころそうでしたか?)を感傷的に思い出すような。
子どものころ。ケストナーのいう、もっとも善良で、正直で、純粋な時代。
あのときが黄金の時代なら、いまはもう鉄の時代です。
きっと子どものころは例の汚らしい煩悩を知らないから。
だから純粋だったんだ。心は青空で、一点の染みもなかった。
でも一度傷ついたら、もう二度と戻れない。
だから、僕らにはもう二度と子どもの時代はもどってこない。


澄み切ったクリスタルの小箱の中の神秘。
すぎさった日々の上につもるもう二度と振り払われはしないほこりのうえからすかして見えるあの黄金の世界。


子どものころはドビュッシーの方にむしろひかれたのでした。
「月の光」とか「亜麻色の髪の乙女」とかの、「夢のような」世界に憧れました。
ドビュッシーには夢がありますが、ラヴェルにはありません。そこには病いしかありません。
今になってやっとその病的な美しさに気がついたのです。なぜなら、ラヴェルはいつも
<過ぎ去ったもう二度ともどってこない美しい日々への感傷>だから。
僕が子どものときは、まだ夢の中に暮らしてた。だから、そんなラヴェルの美しさは分からなかった。
今は分かる。もう僕の人生の最大の幸福は過ぎ去ってしまったということでしょうね。きっと。