circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

新年は駅にて迎える。いつもの年越し青春18切符移動。二宮駅で一人で小田原行きの東海道線を待ちながら、寒さに震えて。20分ぐらい無人の駅のベンチで、ぼーっとしていた。ひとりだった。電車が来て、小田原について、ムーンライトながら号の自由席(小田原から自由席が始まる)に座ることができた。前回は無賃乗車(指定席持たずに乗った)してその罪悪感に押しつぶされたので、今回はきちんと法に則ったのである。小田原までさまざまな電車に乗り換えていくのがとても寒かった。すこしでも早く着こうと乗り継いでいったのが裏目に出て、結局最後に乗ったのはもともと乗り継いでいかなくてもよかった、直結の電車だったのだった。小田原にはさすがに人が少しだけいた。ムーンライトながらの席は少しだけ空いていて、座ることができた。リクライニングシート、蓮実×武満「シネマの快楽」ISBN:4309474152(最高に面白い)、iriverから流れるシャッフルの音楽(英単語、ボサノバ、エリス・レジーナレディオヘッドニルヴァーナ、あと大量の「クラシック」音楽)、それからもぐもぐ!抗鬱剤ルボックス1錠、安定剤メイラックス(愛称メイちゃん)1錠、睡眠薬グッドミン1錠+ベンザリン1錠、まとめて、ごっくん、いいかんじ、GO!*1
するとベンザリンが効きすぎて終点大垣駅で車掌さんが起こしに来るまで寝続けていて、目覚めれば米原行き電車は駅から離れていく途中、つまり初めて大垣ダッシュに参加できなかったこの屈辱、転んでもただでは起きるな、次の電車は30分後。朝7時の大垣の街を旅することにする、いつもどおり、がらがらと荷物を引きずりながら、無人の大垣の街を歩く。このまえは米原で同じことをした米原の駅前にはなにもなかったけれど、大垣には大垣城というのがあって、しかも奥の細道結びの地という記念碑も立っているらしい。しかしなぜ大垣をもって結びとしたのだろう。べつに彼は大垣で死んだのではない。大坂で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と言って死んだのである。とにかく奥の細道結びの地は30分で行って帰ってこれる遠さではなかったので、とりあえず大垣城を見に行く。誰もいない駅前通はシュールであった。その駅前通をしばらく歩いていくと、「水の街、大垣」と書いてある。そうだったのか大垣。大垣と言えばダッシュしかしらなかったので、大垣についての情報が増えて喜ぶ。水路がいたるところにあって、かわべりの道が美しい。さらに駅前通を歩いていく。右に曲がる道があって突如石の道になり、そしてまた突如大垣城が顕現する。いままでが普通の地方都市の町並みだっただけに、その驚きたるやディズニーランドのシンデレラ城の比ではない。天守閣まで登っていく。残念ながら戦災で燃えたので再建である。そして、関が原のときの石田三成の本拠地だったというではないか。そうだったのか大垣。大垣と言えばダッシュと思っていたが大垣と言えば三成ということで知識増えて喜ぶ。そうして正月の朝の無人の街をがらがらと歩いていると、かつてシンガポールを徹夜で歩き回ったことを思い出した。バンコックからシンガポールに着いたのは夕方だった。そして飛行機は次の日の朝に成田に着くのだった。いわゆるトランジットである。滞在のためではなく、乗り換えのためにシンガポールに降りたのである。でもせっかくだから、徹夜でシンガポールを歩こうと、街へ出るバス停で待っていると、話しかけてくる日本人女性がいる。彼女は26歳で(いやはや!僕ともうあまり変わらないじゃないか!)、ぼくは18歳だった。彼女はシンガポール日本人学校の先生をしていた。旅から家に帰る途中だったのである。ぼくはこれから徹夜でシンガポールを歩くつもりだ、というと、そりゃおもしろい、わたしが案内してあげる、シンガポールを旅行者気分で歩くのは初めてだからね、と言う。それで、僕らは延々シンガポールを歩き回った。村上龍が小説に書いている有名なラッフルズホテルにいき、僕はそこではじめて本物のバーというものを見た。「シンガポールスリング」というカクテルで有名な「ロングバー」だった。地面にはたくさんピーナッツの殻が落ちていた。僕は京都に残してきた恋人のことを話し(それはもう大好きだったのだ)、彼女は日本に残してきた恋人のことを話した。遠距離恋愛と言うものは難しいよねえ、という話をしながら、未成年の僕はシンガポールスリングを全部のんでしまった。僕の体にはきつすぎて、苦しくなって、タクシーでついた24時間の屋台街(「ホーカー」とよんでいて、シンガポールの中心街にホーカーは10個ぐらいあったと思う)の横のトイレで全部、吐いてしまった。そのあとで食べた中華料理はおいしかった。それからほんもののマーライオン(水を吐くほう)を見た。今は対岸に移動されてしまったけれど、当時はその対岸の小さな三角形の公園の先に鎮座しておられて、夜はその公園はフェンスで閉じられていた。僕がそのフェンスを登り始めると彼女は笑って、「こんな学生みたいなことするの久しぶり」と言った。社会人になると常識と言うものがつき始めてね、と言った(かくいう今のわたしは25歳でいまだニートである)。それから河岸を歩き続けた。歩きながら彼女のシンガポール生活について聞いた。海外手当がつくし、物価は安いし、お金はたまり放題だって言ってた。彼女は英語教師で、僕は英語ができない(いまだにできない)ので、どうしたらいいですかと言ったら、短文をたくさん覚えなさいと言われた(がいまだにやっていない)ことを覚えている。それからオーチャードストリート(これがメインストリートだ)にでて、これもまた無人でシュールだった。なのにプリクラの機械は動いていて、最後にプリクラを撮って、僕はタクシーで朝の空港へ向かった。帰国してからメールを送ったけれど、かえってこなかった。ああ、当時、26歳ってずいぶん年上に見えたなあ。どうするよ。僕らはバーにいたのだから、「それなりの」雰囲気になりうるかもしれないはずなんだけど、まったく男として相手にされていない感じだった。まあ今会ってもきっとそうだろう(精神年齢は変わってない)。えっと、何の話だっけ。大垣で一人で歩いたのがシンガポール徹夜歩きを思い出したという話だ。大垣城から駅にもどると、30分後の電車は既に行ってしまっていた。抗鬱剤と安定剤を飲んでいる今のぼくは昔みたいに焦らずに、シャッフル音楽(ベルクの次に椎名林檎がくるし、ニルヴァーナを聴いていて椎名林檎のギターの水源を見出したりする)を聴きながら、「シネマの快楽」を読んでいた。武満徹の語り口は好きだ。対立せず、うまく蓮実重彦から話を引き出している。その女性的な気弱さ(という言葉は使いたくないのだが)がすばらしい。二人が、ビクトル・エリセの「エル・スール」についてふたりして大興奮して褒め称えているのが、とても嬉しい。なぜならこれは僕の人生で間違いなくいちばん好きな映画だからだ。たぶんこの地位は一生変わらないだろう(寡作のエリセが素晴らしい次回作を作ってこない限り)。電車が来た。米原行き。座った。寝た。着いても寝ていて、優しい女性に起こされた。なんとかお礼を言うことができた。それから米原発新快速に乗った。1時間弱で京都に着くのだが、ここでも寝てしまい、「次は神戸」というアナウンスで起きる。超笑う。初笑い。うわー神戸来ちゃったよ。初めてだよ。恐るべし新快速。恐るべしベンザリン。タヒタヒにでも会いに行こうか(って連絡先知らない)。さて京都の家ではお煮しめが用意され、僕の帰りを待っていた。電話して、ごめんいま神戸、おくれると笑いながら言う。帰り道、こんどは寝ないで「シネマの快楽」読みながら頑張る。シャッフル音楽はますますナンセンスになっていく。京都駅。観光案内所に入ってみる。シンガポールの彼女のことを思い出したから。面白そうなドイツの写真展のポスターがあって、かなり萌え。
それから地下鉄に乗って家に帰る。