circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

かきたいけれどずっとかけない、という状態のこと、それを破るきっかけなり、なんなりをずっと探して生きている。京都をふたりの女の子が歩いていて、雑誌で。早稲田の人たち、一人はいま京都に戻って住んでいる(くるりみたいだな)、もうひとりは京都が好きな、詩人の娘さん(という情報しか知らない)。ぼんやり読みながら、彼女たちのかくという方法論のところだけ、彼女たちが賞をとって有名になった時、確認したのを思い出した。一人はするするするーとかけたと言っていたと思う(インストール)、もう一人はモチーフやらキーワードをペタペタ壁に貼ると言っていた(詩みたい)。



小説はまだまだかけそうにない。書いてみたいとなぜおもうのか。遠藤周作が言っていたこと、小説は大説ではない、という言葉を子供の時読んでからずっと気になっている。いいたいことがあるならそれを直接言えばいい、というのは、思想をまっすぐ書くことで大説と言えようが、小説が目指すのはそんなに明示的に語りうることではなくもっと微細な…というような論旨だっただろうか。ぼくはそれなら大説家になりたいと思った。世界はぼくによって啓蒙されるべきだ、とでも思っていたのだろう。夏目漱石は坑夫を書く際に、モデルの人間に君がやってきたことは人々が知るべきことだと言っていたと思う。僕がやってきたことはみんなが知るべき何かだろうか?猫つながりで、ねこねこ先生は自分がやったことならかけるといっていたとおもう。