circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

無意味な風景、という、とんでもない美しい題名の、とんでもない美しいメロディーの曲が、また不意打ちのようにオーガニックハウスで流れていて、たいていオーガニックハウスはボサノバの不意打ちで泣かせるのだが、それにしても、イヌーチウ、パイザージェンという、言葉の響き、inutilというスペルの並びの、とんでもない鬱さよ。世界の鬱ソングとして、ブライアン・ウィルソンの、生まれるときを間違えたんだ、というのと、この無意味を、置くだろう。菊地さんのラジオを後にまとめてきいたとき、この鬱を通り抜けたひとが、ブライアンとジョビンを、やはり鬱を通り抜けた音楽家としてのように、はなし、それは、そうなのだなあ、と思った。ぼくは、ジョビンが鬱からたちなおって、よかった。とおもいます。三月の水がなかったとおもうと、夭折なんて意味ないじゃないですか。死ななかったからこその、鬱ソングの美しさだとおもうし、ブライアンもしんでいたら、あの鬱ソングたちの、きかれかたはもっと、ひどいものになっていたようにおもう。立ち直ってからのブライアンを
そんなに、好きではないけど、でもやはり、立ち直ってよかったとおもう。立ち直ることの美しさ、について、いままで考えたこともなかったし、これから考えていきたいとおもう。僕はしななかったから、鬱まとめていかなくては。