circustic sarcas

Diary of K. Watanabe


ビアズリーのペン画《マダム・シガールの誕生日》で、絨毯の装飾的な縁に現れた複雑な孔雀模様の細部と、レイランドの食堂にあるよろい戸の装飾、および有名な闘う孔雀の大きなパネルの様式化された微妙な色合いのデザインを比較してみると、ビアズリーがホイッスラーにどれほど依存しているかが一番よくわかるだろう。ワイルドの戯曲『サロメ』のためにビアズリーが最初に書いた挿絵が公開されたとき、この依存関係はいっそう明白になった。ジャポニズムは、1890年代までにかなりの時間をかけて、ひとつの趣味にまで育っていたのである。
フランスと同様にイギリスでは、画家たちがまずこの未知の分野を発見した。1860年代初めには、ロセッティとホイッスラーが、選りすぐった青花磁器を競って集めていたし、ワッピングやライムハウスの水夫相手の質屋、あるいは旧チェルシーの骨董屋が集まる場所で、あまり価値のない日本の版画を集めたりしていた。その結果、1870年代および80年代の画家や唯美主義者たちの間で、日本の版画を蒐集することは、ある種の強迫観念にまでなっていた。彼らにとって、東洋の磁器や七宝の器、彩色した扇、その他の金ぴかの品々は、いずれ変わらぬ神秘的な魅力を持っていたのである。オスカー・ワイルドは、オックスフォードの学生だったころに東洋美術の熱心な愛好者となり、きわめて唯美主義的な立場から、風変わりなものや色鮮やかなものを愛でる気持ちを仲間に広めていた。