circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

次から次へとあわただしく様式を変えながら、ビアズリーは常に独創性に富み、衝撃的であった。すべての画家と同様に、他からの影響を受け入れ、その可能性に魅せられることがよくあった。しかし借用したものはすべて、自分のものとしていった。マイアー=グレーフェの指摘によれば、「一日のうちに、バロック第一帝政様式、ラファエル前派、日本風のいずれの様式でも描くことができた。しかしながら、彼は常にビアズリーであった」。あるいは、ビアズリーの友人であった画家ウィリアム・ローゼンスタインの息子ジョン・ローゼンスタインの言葉を借りるならば、「オーブリー・ビアズリーの最も優れた才能は、どんな影響も吸収しながら、彼自身の独特の個性を保持すること、いや常にそれを発展させる能力であろう。……さらに彼には、最高の名声を求めるひたむきな気持ちがあったが、それは世間をあっと言わせることでしか得られないと自覚していた」。
 ビアズリーの行動には、人を驚かせたいと言う気持ちが常に存在した。1890年代は、セックスへの関心が徐々に高まりながら、その力に対する恐怖感が潜在的にある時期だった。性的倒錯と結核による衰弱から、死に対する不安と魅惑が交錯する複雑な状況で生きていた時期だった。そうした雰囲気の中で、フランスに登場した「デカダン派」は、彼の明白な芸術的希求を実現する確実な方法だった。そればかりでなく、マックス・ビアボーム(1872-1956、批評家・随筆家・諷刺画家)が述べたように、「わずかな年月の活動で、即座に大評判を得るためには」これは有効な方法だった。ビアズリーに対する大衆の反応は、オスカー・ワイルドへの反応と同じように、ある意味であまりにも予測どおりだった。両者と親しい関係にあったロバート・ロスは、こう述べている。「画家があからさまに禁止された主題を取り上げようとすると、……我々はいかがわしいものを覆い隠すいちじくの葉を、急いで取りにいく」。