circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ビアズリーと性器に関する小レポート未満


極端な表現手法でセクシュアリティを描いて世間を騒がせた画家にオーブリー・ビアズリーがいる。彼の作品は、世紀末を飾った、というよりはむしろ、世紀末を驚かせた。驚かせたために、彼の作品のいくつかは展示や公刊が禁止され、パリとロンドンの闇美術商によって密かに流布されたほどだった。それではなぜ、ビアズリーはそんなにも世紀末の人々を驚かせたのだろうか。理由は二つある。
 第一に、彼のあからさまなエロティシズムだ。しかも彼のエロティシズムは男性性器の描写に集中した。屹立するたくましいペニスが淑女を狼狽させ、紳士を赤面させた。
 そして第二に、渋面をつくる女たちの描写である。優しく上品な聖母へ近づこうとする女性の表情が、ビアズリーによって醜悪なしかめっ面と、下卑た笑い顔とに強制的に変更させられた。これらの作品を見て淑女は赤面し、紳士は狼狽した。
 こうして、ビアズリーは世紀末の人々に向け、心当たりのある人々には憤りのこもった赤面を、また思いがけぬ魂の真相を突きつけられた無知な人々へは、歓喜を秘めた狼狽を、おのおのもたらした。だから、オーブリー・ビアズリーは世紀末を驚かせた画家だったのである。
 ビアズリーは1872年8月21日に生まれた。父親はロンドンで宝石を扱う商家の嫡子だったが、肺結核にかかり試算を擦り減らした末に若死にした。ビアズリー自身は七歳のときに父と同じ病気にかかった。このことは彼が10代になるまで知らされなかったらしいが、敏感な彼は本能的に父の死と自分のそれとを重ねあわせたのだろう。自分の寿命が長くないことを知ってか、彼はすさまじいスピードで絵の才能を開花させていく。しかし1889年の秋になると、彼の病状は悪化し、喀血を伴うほどになった。まだ20歳にもならぬのに、彼は「人生の終幕」が近いことを知ってしまった。
 ビアズリーは半分世を呪っていた。永続する名誉ではなく、刹那的に世を驚かす仕事を無意識に選んだのは、おそらく、「先がない」という彼の絶望感のためだっただろう。
 「サロメ」のタイトルページに描かれた両性具有的なヘルメス柱像のペニスと祈りを捧げる小さなアモールのペニスは検閲を受けて削除されてしまった。その結果、初版本のタイトルページの柱像はヘアだけが残された。
 「サロメ」の作者であるワイルドはホモ・セクシャルにおぼれ、後に逮捕されることになり、その影響は当時関係を疑われていた(事実は違ったが)ビアズリーにも及ぶことになった。
 ワイルドはイギリスで最もスキャンダラスな芸術家としての悪名を馳せており、彼の作品は世紀末エロティシズムの美術表現に大きな変容をしいたのは当然だった。海の向こうのフランスでは女たちの裸体が公然と微笑む一方で、ロンドンではエロスの中核が男色=ペニスに向かったのはワイルドとビアズリーの影響だった。
 ビアズリーはペニスを描写することは多かったが、女性のヌードを描くことは少なく、書いたとしても無毛として表現していた。しかし1896年、アリストファネス著「女の平和」の挿絵において多くの女性のヘアを描いた。「女の平和」は、当時最も売れたポルノグラフィー作家であり出版者でもあったレナード・スミザーズにより、限定100部のみ出版された。性的な要素の中でもっとも法外で人目を引くのは、挿絵を占領している勃起した巨大なペニスであろう。ペニスは原作の主題から直接インスピレーションを受けたものであり、それ故に正当化されてきたかもしれない。「女の平和」は性的な欲求不満のテーマを扱い、性欲を刺激するような厚顔無恥の猥雑さを伴っていた。さらにこうした猥雑な喜劇を、過去、ギリシャの舞台で上演する際には、遠くの観客にも役柄の性格がはっきりと分かるように、役者たちが巨大なペニスをつけていたことが知られている。解剖学的に見て性格であり、心理学的には強迫観念を表すペニスのイメージから、それが、ビアズリーが感じ取った強い性的な欲求不満を明確に表していると、容易に推測することができよう。当時の基準からすると、こうした細部を伴う本は、出版どころか、普通に広告することさえできなかったのは言うまでもない。しかし、この種の本はスミザーズの内々の商売には望ましいものだった。スミザーズは、どの本にも特有の紫色のインクでナンバーをいれ、イニシャルで署名した。ほんの背表紙はきわめて簡素であり、どんなタイトルやラベルにも通用する無害なものだった。
 ビアズリーがここで女性のヌードとヘアを大量に描いた理由は、原作の猥雑さ、男が女に性交を嘆願するような内容に応じて、男性の巨大なペニスに対応する形で女性の性器を示唆するために書き込んだものと思われる。

                                                    • -

以下忘れたけれど何かの本の抜粋


オーブリー・ビアズリーと1890年代の状況

1980年代、結核性の熱に浮かされた短い年月の間に、早咲きの才能を開花させたオーブリー・ビアズリーほど、その個性を自らの時代にはっきりと刻印したものはいないだろう。わずか25歳で夭折したが、生前から「ビアズリーの時代」ということばを人々が使い始めていた。われわれは今日、ビアズリーの絶妙な白と黒のデッサンのなかに、見事に開花した繊細な象徴主義、エロティシズム、感覚的な装飾性、そしてとりわけ、意識的に正道から外れた退廃的で気取った唯美主義を伴う、世紀末的感性の真髄が、紛れもなく反映されているのに気づく。