circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

対欝ノート(「論理哲学論考」を読んで)



二ヶ月という短期間で私は会社/社会を脱落した。三年はやってみなければならないと思ったのだが合わないものは2ヶ月でわかるということだろうか。単に鬱病だっただけだということだろうか。前者を採る。仮に。


とにかく始めることだ、あたらしく新しい二ヶ月を始めることだ。それがだめなら次へ移動することだ。動いて見て触って自分の世界を広げることだ。人に会うことだ。集まりに出ることだ。本を読むことだ。世界は私の世界である(独我論において)。ただしその意味において世界は狭い。常識的な言葉遣いにおいての「世界」(非独我論において)は先ほどの世界よりも常に広い可能性のゆとりをもって存在して(くれて)いる。私には認知し得ないけれど。あるのかないのかわからないけれど、曖昧に、それはあると信じている。信じざるを得ない。


やる/やらないではなくて、やる/Φ(空)であるということ。やらないということは死に近い。なにかをやるのであり、やらなければ存在しないのである。何をやるかは別にして、やる以外の選択肢はない。(たとえば寝る、にしてもそうである)すべての行為を肯定的に捉えるしかなく、やらなかったという言葉はありえない。それは存在しなかったということである。しかし私は存在するのである。やるならば何をやるかという選択である。寝るか勉強するか外に出るか、すべてがやるということであり、それぞれに長所(((と短所)))を持つ。


書き記すことだ。たとえば、今日やることを書き記すことだ。たとえば寝る、と書くことだ。今日は寝る。今日は本を読む。2時間読む。2ヶ月読む。絵を描く。1時間描く。やめたならば次にすることを書き記すことだ。ぼーっとする。泣く。なんでもいい。


同時に、やりたいことを書き記すことだ。やりたい、できるかどうか、といっている時点では実現していない。事実ではない。リアライズされていない。リアライズしなければならない。そのためには思考では不十分であり、行動に出なければならない。第一の行動として書き記すことだ。あるいは独り言を言うでもいい。曖昧な脳内の思考ではなく論理的に明晰にやりたいことを書き記すことだ。それがたとえできなさそうなことだとしてもできなさそうなことを書いたということを実現してはいるのである。それが第一歩だ。できなさそうだということを曖昧に脳内で思考していつづけてもどこにも動けないのである。それは空である(可能性ということについてすら考えることができていない。)可能性を表現するためには書かねばならない。そのさいに実現可能性を無視することが重要である。まずは思考可能性を追求すること。いわゆるブレインストーミングである。自分がどうありたいか、なにをやりたいかということを、思考可能な限りにおいて書き尽くすこと。無茶でもかまわない。それが第一歩だ。


さらに、考えているだけ、ではだめである。自分は何もしないまま、人を批判するだけでもだめである。自分が、行動で示さねばならない。そのために、書き尽くされたものを検討し、ひとつずつやるかやらないかを決めていくこと。迷ったらやる方向で。基本的にいまの私は空であるから、世捨て人の気分でなんでもやってみればよい。すべての項目の答えが否であれば、本当に世捨て人になればよい。それ以外に選択肢がないのだから。あるいはさらに放浪して思考対象を増やし思考可能な選択肢を増やすほかない。それは暫く世捨て人となるということかもしれない。それが永遠に続くことはないであろう。永遠に続けば世捨て人のままくたばるのみである。しかしいつかやりたいと思う対象を見つけることになるだろう。


もしすべての項目が否であった場合でも、死んではならない。世捨て人になって放浪しなければならない。文字通りの放浪ではなくてもよい。いまの私の世界では見えていないことを、見えるようにするために、世界を広げなければならない。世界の限界に広がるリンボを、あるいは砂漠をさまようこと。世界は私が認識しているよりも、いつも少しだけ広い、と信じること。そこに最後の希望がある。


すべてを失ったときには、世界の周縁地帯でノイズを叫べ。