circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

問題は睡眠薬を飲んでも眠れないこと。頭の中がざわざわして、落ち着くべき呪文を持たない。明日は鬱の日になりそうだ、という予感だけが、心に覆いをかけてしまう。


何が原因なのか単純には分からない、というのが鬱病の一つの要素であるのだけれど、その原因探しに必死になって自己否定に走るよりは現状をよくしたほうがいいというアドバイスはよく聞くのだけれど、因果関係が断たれないままに現状がよくなるわけがないという頭も働き、そのような考えの中で果たして鬱病は治るのか否か。それでも原因を探ろうとしてもあまりに複合的で問題が定まらずしたがって解決策も見当たらない。したがってしかたなく現状をよくするために気分転換という名前のよしなしごとをして暮らしている。世の中に申し訳ないし幼いころの自分にも申し訳ない。


何も考えないで感じることだと言われ、感じることはただあせりなので、ひたすらあせってみると、今日一日中貧乏ゆすりが止まらず、それも自分があせっているということを感じるということで、今日眠れないというのもその焦りを受け止めなければならないということで、なぜ私があせっているのかはよくわからないけれど、とにかく睡眠薬が効かないほどに何かあせっているのだから、それは相当のものとして受け止めておき、書き残しておくのがいいのだろう。


落ち着くだろうということをいろいろと試してみたけれど、一向に気分は静まる気配がない。深呼吸をしたり、ごろごろとしてみたり、ゆったりとした音楽を聴いてみたりしても、内部が嵐なのでなにもおこらない。しかたなく嵐は嵐のまま吹き荒らしておかせるしかない。制御不能。気持ちは躁ではないのだけれど、身体に躁が巻き起こっているような感じがする。


たぶん今日はもう眠れないだろう。それでも眠れないままにベッドの中で身体を休めるようにしてみよう。たぶんいらいらするだろうけれど、そのいらいらも受け止めるしかない。あるがままの自分を肯定するしかない。よくなりたい。鬱病からなおりたい。だけどそれは段階的なもので、焦って治そうとしてもかえって自殺を招いたりするだけだろう。おそらく。


自分をコントロールしようという試みはそれでもするべきであり、いまなんの設計図もなく思いつきで暮らしているために、このようなことが起こるのかもしれない。たとえば、9時を過ぎたらパソコンには触らない、照明は暗くして、興奮するようなことは避ける、等々。


今とりあえず気になっているのはシナプス前細胞から放出されるセロトニンの量はSSRIによるシナプスセロトニン濃度向上とは関係ないのではないかという考えであり、つまり少人数でかけっこするのに、すでに運動場に4万人ぐらいいたら、ゴールにたどり着くのがすくなくとも速くなるとは考えられないことで、これはいったいどういう解説がなされるのだろう、と今日一日考えていた。あるいは4万人を押し出すことによって誰かがゴールに到達すればいいのか。そもそもシナプス前細胞から放出されるセロトニンが関わっている役割とはなんなのだろうか。そもそもセロトニン不足が鬱の原因なのだろうか。


考えても仕方のないことは考えないことにするという立場があって。だがそれでも考えてしまうという性質もあって。夜は寂しい。