circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ミレー、ルドン、ドビュッシー、そしてラヴェル

パステル画の教科書を読んでいてはっと気がつきました。まだ塊として気がついたのでうまくかけないのだけれど、どんなパステル画家もオディロン・ルドンのオリジナリティに追いつかない、というか、オディロン・ルドンシュールレアリストに後に祭り上げられるし、ギュスターブ・モローもその隠していた抽象的デッサンによって抽象画家から後に祭り上げられるわけだが、ルドンに関していうと、あのルドンのパステルの美しさは、未完成の美しさではないか、ということに母と話していて結論が出たのです。母が受けたパステルの教育の話を聞いていると、ルドンの色がぼんやりしている上に、もうすこし細かい線で描写するというのがパステル画の完成といういうことなんですね。で、たぶんルドンはいろんなパステルを置いて、それを指で伸ばしたり筆で伸ばしたりして、そこで終えてしまう。細かい描写をしない。そしてルドンの線描は、たいていデッサンが狂っているのです(でもあれもわざとである可能性はありますが…)。彼はアカデミズムを経た人ではない、それがピカソとの違いかもしれない。かけるという基礎の上であえて書かないということを重視する人たちがたくさんいるけれどもはやそれは時代遅れではないかと思ったりもする。パステル画の教科書の先生は、「指で伸ばすとパステル特有の輝きが台無しになってしまう」と書いています。パステルで私がルドンの次に好きなのはミレーです(ドガのも好きですが)。ミレーのパステル画は「パステル特有」の質感を持って、いつも輝いています。一方、わたしにはルドンのぼんやりした感触が「パステル特有」の輝きを「台無し」とは考えないのです。あれもまたパステルにしかできないことで、おそらくルドン以前も以後もあのように描いてあのような世界観を打ち出した人はいないのではないでしょうか。
http://www.mighty.co.jp/museum/jpg/collection/millet-02.jpg →ミレー
http://artist.guire-vaka.com/Redon/nimble_virgin.jpg →ルドン
そして母も、たいていのパステル画家よりも、あの完成直前のルドン的あいまいさが好きだといいます。自分で書いたパステル画を僕に見せながら、全部気に入らないのだといいます。なぜなら完成させられてしまったから。ルドンのとっつきにくさ(わたしはルドンを見てから好きになるまでにずいぶん時間がかかりました。中学三年のとき、オルセーのルドン部屋で雷に打たれるまで、わたしは半信半疑だったのです。ルドンは、「完成」させないことによって、見るものに参加を要求するのかもしれない。ルドンの人々は見ない。目をつぶっている。われわれが彼らに入っていくことを要求するんだとおもいます。
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/redon/redon.golden-cell.jpg


その教科書を僕は嫌いだと思ったし、教科書の先生の絵も、完成画よりも過程画のほうが美しいと思った。いろいろ本には不満があったのだけれど、その教科書のおかげで、私は気がついたのでした。彼の「パステル特有の輝き」という言葉は、非常に示唆に富むものだということに。そして、それはパステル画にとどまらないものだということを、今日ラヴェルの「優雅で感傷的なワルツ」を弾きながら雷に打たれたように気がついたのです。


ラヴェルの高音を私はいままでときにペダルを踏みながら弾いていました。しかし、ピアノの高音というのはそれ自体で恐ろしく美しいものです。タッチ、音色。それを、最初からペダルを踏んでしまうと、そのとても繊細な音色をぼんやりとさせてしまう。わたしはラヴェルドビュッシーと同じように弾いていた訳です。ドビュッシーの場合、高音は美しいのですが、その美しさは和声の漂いの美しさであって、「月の光」をたとえば弾いてみて、そこでたたかれる高音の作用はただよっている和声の流れの中でのきらめきだったのでした。しかしラヴェルは違う。ストラヴィンスキーのあまりにも有名な「スイスの時計のようだ」という喩えを私は受け入れたくなかったのですが、受け入れざるを得ないなと今日悟ったのでした。一つ一つの高音のタッチがきちんと叩かれなくてはならない。ラヴェルは和声の流麗な変化というよりも、一つ一つの細かい音符によって、明確に毒が滴下されていく。点滴のように。ドビュッシーが夢だとしても、ラヴェルは決して夢ではない、もっと明確なものです。もっとフォーカスがあっている。夢というよりも神話を現前しているかのようです。ドビュッシーはしかし、今を話している。ラヴェルはどうしても昔を話している。ドビュッシーは「今」をあいまいに美しく話している。ラヴェルは美しかった「昔」をどうしようもなく傷つきながら「精密に」話している。ラヴェルドビュッシーも美しいけれど、それは話されている内容の美しさと話し方の美しさの違いは大きいと思ったのです。ミレーが外を輝きに満ちて描き、ルドンが内側をあいまいに描くとき、それはそれぞれにすばらしいのだけれどわたしは後者が好きだ。そして極論だがドビュッシーは外をあいまいに描き、ラヴェルが内側をはっきりと描くとき、私はやっぱり後者が好きだ。よっぽどわたしは内側が好きなのらしい。


極論だな。