恍惚をよむ
Kさん
雨に懐中電灯を(心に花束を)No.18856
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てきすと No.18855
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チー No.18854
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今の僕の精神状態にすとんとおちてきて暖かかった。「雨に懐中電灯を(心に花束を)」は、そんなに変わった話ではなくて、宮崎アニメとかを見ていて出てきそうな場面に過ぎないといわれればそうかもしれない、人間の心理の深さを書いてないといわれてもそうかもしれない(そもそもそんなものを書く気がないのだからそういう批判は当たらないのだが)、だけど、
と来ると、もう僕はなにも言えなくなって、何も言えないのでもう何も言いません。
パパとママは
しばらく顔を見合わせ
久し振りにお互いを
名前で呼びました
「てきすと」を見ていると、たぶんここには意味というものはなくて、一人でつぶやいているとこんなうたが出てきたと言う感じで、その無意味さこそが人間味を帯び始める瞬間を感じるのが、「くるーみー」のひとことだった。
くるみなのかくるみじゃないのかよくわからないんだけど、たぶん本人もわかっていなくて、ひとりごとなんてそんなものだし、あるいはこれはひとりごとではなくて、すきなひととのふたりごとかもしれなくて、そうなればますます無意味性が人間味を帯び始めるんだとおもう。恋人と、日本語じゃない日本語(許して)を話すのが好きだ、というのは僕だけじゃないだろうと思う。「にゃー。」とか。「なになにだもじゃ。」とか。幼児退行っていうのかな。愛、だよね!そう、だよね!
あたしときみ
くるーみーなみるくと
とんがったつきくるみなんてないの
あるのはくるみ
あたしときみは
きっとそんなくるみくるみはないの
あるのはくるみ
似たような雰囲気を「チー」にも感じて、
なんだか、すとん、ときたのでした。たいげんどめは、おちつくなあ。ほええええ、と思いながら読んでいました。
青空には澄み切りそうにない
溢れ出る水分を
ただ
重力に逆らいもせず
流した
紋白蝶の影
アスファルトに蒸気
風の止む場所
あと、もう一度昨日書いたとかげさんの詩を読んでいて、いつものとかげさんの一歩下がった定義的思考がここでは後ろに下がって、暖かい感性が動いているように見えた、
この部分を僕は、ずっと忘れたくない言葉だな、と思ってみていた、のだが、よく読んでいると、やっぱりとかげさんのいつもの一歩下がった定義的思考はふとしたところにかくれていて、
わたしは日をとどめることもできず
子どもにいきをさせることもできず
ただしんだひとの手に触れてつめたいと思う
ああ!と思った。この、自分自身を見つめる、ちょっとニヒルな、幽体離脱的な視線。この、とかげさんの幽体離脱的な概念的定義的思考もまた、僕は好きだ。
それに手出しすることなくいかにもやさしそうな顔をしている