circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

モントリオールモントルーの音源をそれぞれ。電車は湖畔を走って、ひかりの中ですべての色がパステルカラーに褪せた街へついた、ひかりがすべての色をすこしずつ白くしていた、ここが天国だ、ここが天国なのだ!その地点に着いた23だか何歳だかのときから、死から生へ向かって後ろ向きに歩き始めた、ように見えたのだけれど、歩いたのはたぶん次の死だった。生きることの苦しみから解放されたあとには新しい虚無しかなかった。そんな渾然一体を思い出す、モントルーという土地で、鳴り続けてきた音があって、それが夜の音楽だったりするということ。その傍らでクイーンは天国からのアルバムを作るし、シュトラウス白鳥の歌を歌うし、戦争から逃げてくるヘミングウェイは、ここで一息をつく。そして美しいヴェヴェイ。スイスという国はとても不思議なところで、世界の果てでもあり、平和でもあり、マネーロンダリングがあり、海軍もある。わたしが死へ向かってもういちど、古澤さんが静かに辿ったように、





昨日のじすもん、なぜ心を打つのか考えて、あえて言うなら、前半のプラネタリウムに流れがちなポピュラーピアニストたちの甘口なアプローチには惹かれず、むしろ抑制のなかで歌うベースの後ろで影になって沈んでいる世界のなかで、ある種、そろそろと、勇気を持って一人で踊り出すかんじに大変打たれて、あのサンバのリズムが、大勢ではなく、引きこもっていた一人がその引きこもりの部屋のなかで一人で生に向かって踊りだすような、一言で言えば勇気があそこにあって、それは死を選ばないということで、世界から見ればそんな汚い、おそらく汚物も垂れ流されているような、精神のどん底において、誰かがちいさな踊りを始めたとて、美しくもなんともないのだけれど、それでもいま世界で一番美しい瞬間は間違いなくそこで行われている、そこにかみさまのひかりが降りてきてる、そう思う、僕はながらくブラジルを勘違いしていたのではないか、みんなで楽しく騒ぐ、とばかり思っていたのではないか、こんなに静かにあのリズムが一人きりで鳴らされる時、こんなにかみさまみたいに撃たれるなんて、それに、あの繰り返し上へ下へ行ったり来たりする二声和音の行き交いは、あれはほとんどガムランじゃないか、という気付きでわたしはやられてる。ガムランとサンバを静かにジャズと夢に持ち込むこと、というのがわたしのたぶんライフワークになるんだろうと思う。