circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

宮崎駿/風立ちぬ(2013 日本)

一言でいえば、お涙頂戴の下品な作品。ただひとり、庵野秀明の上品さが救っていた。


おすすめはしない。ここを読んでくれているひとには。で、未見のかた、下記読まないでね。そのかわりいますぐ「困ります、ファインマンさん」、の冒頭五十頁ぐらいを読んで!(「ご冗談でしょう、ファインマンさん」の下から見たロスアラモスよりもこちらを。)この映画よりずっとオススメだし、読んでから見てもらうと下記のことわかってもらえると思う。
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庵野さんが一人だけ素晴らしかったと言うのは、皮肉ではない。あまりにお涙頂戴なので、この映画では泣きたくなかったけれど、庵野さんで泣かされました。見事な、不意打ち。この映画について、チュチュシーンリフを批判せず庵野さんを批判している人は、信用しないようにしたい。


あと、普段嫌いな久石さん。すみません、良かったです。飛行機計算シーンのポリリズム・ミニマル。あそこは、とても良かった。あの一分だけでも、見に行く価値はあるかもしれない。


見ながら、ふたつのこととの比較を続けてしまった。


まず、アリエッティの上品さと比べてしまう。アリエッティの少年こそが、生きねば、となによりも力強く決心したのだったが、あの、周りの登場人物によるおしつけのなさ(少年が生きることを決意した瞬間、一体誰が周りにいて、泣いたりしただろう)。別れに少女の涙するが、あれはみんなに泣けという涙ではなく、むしろ表面張力の表現意欲のためであるかのように、少女がフレームアウトしてからぷよぷよのように跳ねた。わたしが泣いたのは、勝手にそこに自分が感情移入したからで、もしそこでキスシーンのひとつでもあれば興醒め。アリエッティの監督はそこを自粛した、というよりも、絶対にしたくなかったんだろうと思う。ないてもいいし泣かなくてもいい。そして私は果てしなく泣いた。泣かずにいられるものか。あんなに美しい恋愛映画をジブリから見せられるなんて!!
一方、風立ちぬでは人々は押し付けがましく泣き、ヒロインを健気だ健気だという。ええー?あんなにチュッチュッチュチュチュしといて。夏パーティか。かわいそうもなにもあるか。仲睦まじさをこれでもかのキスシーンで表現っていう安易さ結核患者にキスすることの危険性は私はわからない、でも、その説明もなく、最初のキスで、ヒロインはうつっちゃうから、というのに、堀越はいいんだ、と言ってキスしてしまう。ねえそれって愛なの?ねえ、それが愛なの?大切だからもう一度いう。それは愛なの?わたしにはそれはキスしたいという衝動に過ぎないとしか思えないの。


映画を見ている間ずーっと考えていたのは、太平洋の向こう側で原爆を作っていた、おそらく主人公と同じぐらい若いリチャード・ファインマンとその不治の病の妻アーリーンのことだ(「困ります、ファインマンさん」は本当に読んで欲しいです!)。このふたつの物語はあまりにも相似形だから誰かがきっと対照してくれるといいとおもう。人々の期待を背負った若手の天才、実験の成功、それが人を殺したこと(ファインマンは広島長崎のあとで鬱のような脱力状態に陥る、が、この映画では反省は描かれない、それはテーマではないからで、それは理解できる)。言いたいのは、ファインマンはアーリーンとキスしないことによって、ふたりの、キスごときで表象できない愛を示したことだ。流されず、理性的に考え、恋人との最後の時間を大切に過ごした。それは、まだ実験が成功する前ではなかったか。東大工学部卒のインテリであれば、そして飛行機を飛ばす夢があるならば、病のことぐらいきちんと調べたはずだし、勢いに任せてチュッチュッチュチュチュしないはずだ(しつこい)。しかも、戦前戦中の良家のお嬢様とエリートが婚前にあんなチュチュしてたのかな?肉体関係が結ばれないからこそ移入される感情があると思うのだが(それこそ、アリエッティ)。


ここで泣かせようというのが多すぎて。両家の親も出てこない、どたばた結婚式も、泣かせのシーン。ヒロイン母はなくなっていても、父は東京にいるんじゃないの?来れないの?主人公両親ほっておいていいの?婚前の二人を泊められないからその場で結婚なの?部屋を分ければ?一日ぐらい伸ばせないの?よくわからない仲人の小芝居だけでいいの?それで泣けというの?で、初夜?


綺麗なところだけ見せたくて、勝手に入院?それは未婚の女性であるべきでは?キスもセックスもして結婚までして、看取らせないの?そもそも、あの長野へ戻るシーンを書きたいなら断固結婚させるべきじゃなかったし、キスもセックスもさせるべきではなかったと思う。帰るのを堀越が認めていたならそのやり取りをきちんと書くべき。あれだと、本当に、恋人に綺麗なとこだけ見せたかった、ってことになるよ?結婚はセックスするための擬装だったの?そうでないなら、最後まで看取り、看取らせるべきではないの?あまりにも表面的すぎる。最後まで寄り添う、寄り添わないという問題はどちらへ転ぶとしてももっと真剣に扱うべき。それをすっ飛ばしてなにが愛だと思う。ちなみに、リチャードはアーリーンを看取り、その上で、本当に美しい、上品な描写をしていた。死んだ時間で止まった時計のことを、奇跡ではなくいかにありえるかを、理性的に考え、過剰なロマンチシズムを乗り越えること、あるいは、理性的すぎることの描写、そしてそれらがすべてひっくり返されて涙が止まらなくなった数週間後のふとしたきっかけのこと、と、人間というのはこんなにもおかしくて複雑なんだ、というのは、ほんとに真に迫っている。しつこいけど、困りますファインマンさん、読んでください。


庵野さん、よく、これだけのお涙頂戴ななか、まかされた素人演技の枠を越えないで、演技されたと思う。これでもし堀越まで感情演技ならもう席を立ちました。キスシーンとか、大好きだ、とか、もし感情入ってたら僕死んでた。よくぞ、役を与えられた意味を、弁えられた。宮崎さん、これだけはいいたい、素晴らしいキャスティングと。堀越が唯一感情を表すのが、ラスト、まったく感情移入できない夢のシーンで、しんだらしいヒロインが向こうからやってくる(ここお涙頂戴なかんじ)、あかんこれはひどい、とおもった瞬間、不意打ちのように、庵野の声が震えた。


そのセリフ二語。「うん、うん」。沈没しました。そのあとにもすこし高ぶってしゃべっていたけど、もうこのうん、うんだけで切って欲しいぐらいだった。素人だからこそ、泣くときに、本当に泣かなければ泣けない感じ、見事にでていました。他の俳優の涙と違って(妹が、ヒロインが去ったあとに泣くシーンの醜さはそこに因っている)。ありがとう。僕のお金と時間はみごとに救われたのです。ああ、奇跡的な、ソクーロフ「マザー、サン」の最後の嗚咽のことを、思い出したりまでしたのですから。なくということは、本当に恐ろしい表現手法ではないかと思いました。


ちなみにファインマンの悲恋とマンハッタン計画のことはすでにインフィニティの題名で映画化されている。http://en.m.wikipedia.org/wiki/Infinity_(film)
まだみていないけれど、口コミを見る限り期待できないそう。