circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ずっとコルンのセクステットを聞いている。

これはすごい曲だということを僕は気付かなくて、いつもそういうことは僕が軽々しく騒いだあとに森の人が教えてくれる。

セクステットと聞いて思い出すのがブラームスで、彼のセクステットがコルンの脳裏にあったかわからないけれど、これは勝手な高3的おくれてきた思春期の夏を過ごしていた私の上に天の人みたいな女性から手渡されたカセットテープ(カセットテープ!)に入っていたものこそブラセクであって、もう、聴きたくない甘い記憶なのだけれど、日本語の連想のなかでそれはどうしても性的なものであって、コルンの緩徐楽章をきいていても、なんと悩ましいことだろう、弦が個人で六人も違うことをしていてどうして性のにおいがしないことがあるか。

森の人がその和音をたけみつの音楽以前、と繋げてくれたことが、とてもわたしに補助線をくれている。コルン、ハリウッド、映画、武満、と書いてしまえば恐ろしく豪速球の直球で頭が悪いのだけれど、しかし。レクイエムでデビューした人が、最初から弦だけで死を歌っている時、それは、どうしても、そもそも論的に、ウィーンとつながっていないか。コルンセクをきくとき僕が自動で想起するのはシュトラウス第二次世界大戦への挽歌なのだけれど、



これはコルンよりも後に作られているのだという時系列に混乱しつつ、かならずこのにきょく(コル→シュト、しかしこの矢印は逆のはずだが)はつながっているはずだし、戦後の作曲家がレクイエムをかいたときに、この挽歌とにたような気持ちであったり、そもそも知っていたのだろうか、というところにいま興味は出つつあるのだが、それよりもいまはアメリカという第三項のことだ。スクリャ本人にけっして影響を及ぼさなかったであろう第三項、たけみつへ決して伸びていないと僕は信じるスクリャからの補助線、それはコルンにもつながっている訳はなく、しかしそれらはアメリカというブラックホールに流れ込んではいる、
まったくおなじ死と愛のにおいをさせているシェーンベルク浄夜からも、もちろん、アメリカへ流れる太い線がある、
世紀末ウィーン→アメリカ、たしかに、フィッツジェラルドを読むと、あのゴージャスな気分はウィーンに似ていないわけじゃなさそうな気がする