circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

風邪引き。会社休み。
スッキリ、を見て、八木さんという重量挙げ選手の特集で、なにか心があらわれるような気持ちになる。
美しいということが、注目の理由となるのはかわいそうなことだと思いながら、なんとなく、僕はその作品が好きだった、美少女といわれた芥川賞作家のことを思い出した。
マスコミが美少女と書きたて、萌えシーン、萌えカットを撮ろうとするとき、わたしはその潜在需要を支えてしまっている、
のだろうか?あの人は、でも、あのときの存在感は、作品とはまたべつに、残してほしいものだったようにも思う。佐々木昭一郎の方法だけが、それを正当化すると思う。
佐々木作品が、一人の女子高生を被写体にドラマを撮ったとき、あれは、あの、類稀な美少女の、限られた年齢しか持たない儚さを、その高校時代の、時間というものを、きちんと残したという功績ではないか、そして、それはそのやり方でしか(写真集や、マスコミ的な萌えの切り取りではなく)残せなかったとおもう。静かにカメラを向けて、同じ時間をとらえること。


作らず、生起させること。


作家が賞をとったころに、ああ、素のこの人のありかたを、なにか残すべきではないか、とぼんやりおもった。久しぶりに見ると、やはりそのはかなさのようなものは、消えているように思えた。


自意識のフィードバックなのだろうか?