circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

たけみつがハーモニーの人だったとき、彼の「岩波文化人的」平和論、奇しくも最近村上さんがよく使う卵の比喩、などが、人は社会の中で個個としてありつつも調和する、というときの、調和と、同じことばと意味においてではないか、と思い当たってしまうのは、どうすれば良いのだろう。思想と音楽は関係ないのではないのか。いや、どうなのか。黛さんが右だから彼の曲はだめだ、などということばが普通にいわれてよいのか。ロックミュージックならばありそうだ。ヒップホップならばなおさら。であればハーモニーは夢であります。わたしはかつて考えたことを繰り返すだけになる。ルドンが輪郭を書かなかったことと、たけみつが旋律を書かなかったこと(長くくっきりとは)、かれが引用したのはよりによってドビュッシーの海であった。あのせんりつないのにうつくしい曲。かれがもう二つだけ引用した(他にあるかもしれないが)のは、ラルクアンシェルにおけるカタルニア民謡と、ふぉりおすにおけるマタイだけで、どちらもやはり断片というべき夢的な論理性しか湛えず浮遊している…ように。わたしはたぶんメシアンには深く入れ込まないだろう。あの喜びがどこから来ているのか。それがカトリシズムだとすればわたしはどうするのか。わたしは大好きな1q84の公園シーンを、メシアンのBGMで撮りたいと思った。時の終わりのための、で撮りたいとおもった。シンフォニエッタはほとんど使わないだろう。公園に出て、ベランダに出て、同じ月をずっと見上げている絵だけとればそれでもういいようにおもう。嬰児は遍在する。月から光があらゆる注ぎをなみなみとバスケットボールの形で浮かび見ているすべてのゲームと、跪きを。ゴダールの絵だと思う。