circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

2004/5/14

朝早く起きる。6時ぐらいだ。散歩に出ようと思う。

町を歩いているとこんなswatchの広告があってスゲーと。時計でできた服て。
姉さん裸だよそれは。



カジノの横にあるストラヴィンスキー通りを見つけた。ストラヴィンスキーモントルーに住んでいたらしい(http://www.asahi-net.or.jp/~RD6Y-TKB/Montreux001.html)。
ここは英語学校で、ポスターには"DO YOU SPEAK ENGLISH?"と恐ろしくストレートなコピーが書いてある。


ひたすら道を登っていく。斜面にできた町である。地図に教会が書いてあった。朝の教会は好きだ。
行ってみたら閉まっていたけれど、そこから見た町の景色は美しかった。

教会の庭にベンチがおいてあって、こんな板が貼り付けてある。

10人ぐらいの詩人・作家の名前が書いてあって、それぞれがそれぞれのベンチを持っている。
ベンチには3つボタンがあって、英語、フランス語、ドイツ語のボタン。押すと、しゃべり出す。
このベンチはシヨン城についてどうやらしゃべったようだが、3回聴いても難しくてわからなかった。


モントルーは新しい町と古い町に分かれていて、古い町のほうに歩いていく、それは少し高い場所に
残されている。道が狭く、階段が多くて視覚的に楽しい。


どんどん坂を上っていく。



坂の上から見た古い町。



隣町が見える。




上りすぎて中心街に戻れるかどうか不安になったところで、中心街へという標識が現れる。
狭い階段。驚いたことに階段にまで名前が着いている。階段の名前の標識は、普通の通りの標識と
同じものが使われていたのが面白いと思った。

Escaliers de Pallensと書いてある。Pallens階段。
辞書に載ってない名前、固有名詞だろうと思う。



階段を下りていくとブドウ畑だ。多分ワインのためのものだろう。



モントルーで見た唯一の日本語がこれだった。


湖岸まで歩いてきた、モントルー・パレスホテルを見ておきたかったので。
パレスホテル、5つ星のホテル、有名な人たちがたくさん泊まったという。
サラ・ベルナールナボコフ、BBキング、マイルス・デイヴィスエリック・クラプトン
ジェームズ・ブラウンマイケル・ジャクソンジェット・リーブリジット・フォンダ、云々。
われらがクイーンも。それから、リヒャルト・シュトラウスが最後の4つの歌の4曲目(書いた順序は一番最初)、「夕映えに」を
書いたのもこのホテル。



パレスホテルの前に佇むヴラディミール・ナボコフ



うしろナボコフ


ナボコフといえば共感覚で、エレーヌ・グリモーが「音の色を見ることができる」と言っていたのを思い出した。
そこで、僕は湖を歩きながら、いろんな音楽を頭の中に流してがんばってみたけれど、色を感じることはできなかった。



モントルー・ジャズフェスティバルの会場、ストラヴィンスキーホール。ガラス張り。



いて座。



湖から見たパレスホテル。この町モントルーでは、全ての色が淡くて美しい。



この写真の奥に見えるのだが、水をやる職員と落ち葉を掃除機で吸っている職員がいた。時間は今7時53分。
こうやってモントルーの美しさが保たれている。



湖沿いの野外ホール?左端にストラヴィンスキーがいる。


今日はマーケットが開かれていた。服とか古本とか春巻とか売ってて、僕は春巻きを買って食べた。
パクチーの味がした。モントルーパクチー。奇妙。



テントと朝のフレさん。



(フレさんの)股間から覗くレマン湖
(後記:考える事が下劣だなあ)



フレ顔。



さそり座?かに座?



ふたご座。



家から線路が出てきて、



湖に消える。左京区民にしか通じないかもしれないが、インクラインの要領ですね。
(てか田邊朔郎って21歳だったなんて。あせるなあ。
田邊朔郎像の像の下で二人で町を見下ろしていた青かった17の夏)



ユースホステルに帰って朝ごはんを食べる。
ユースとしては結構上等な朝食だと思われます。



これが食堂。真ん中にキース・ヘリングが書いたっぽい1983年のジャズフェスのポスター。
検索したら83年に書かれたモントルーという名前の絵。
ということは多分本物のへリングさんだ。食堂だけにおなかヘリング。



くねくね。



それからシヨン城へ歩いていく。YHから15分ぐらい。
この城は岩盤の上に立った岩でできた城で、そりゃあ凄いんだ。
幻みたいに佇んでいる。



首吊り台。



地下牢。ジュネーブの独立を助けた修道士が5年ぐらい、この一番前の柱に繋がれていた。
かわいそうに、真っ暗なのに。5年後助けられるのだけれど。
数世紀後、この物語に胸を打たれたバイロンがこの出来事を詩にして、シヨン城は有名になった。
らしい。バイロンが上の写真の3番目の柱に自分の名前を彫りつけている。

BYRON
ガラスコーティングであります。


しかしヨーロッパと言うのはなんて地下牢が好きな土地なんだ、と勝手に思う。
しかも必ず思いっきりくねくねしてる。迷路みたいに。



で、こいつがトイレだ!

上から見たトイレ
湖に落ちていく。ずいぶん高いので、落ちるのに2秒はかかりそうです。



この部屋の、天井の絵の保存状態はよく、壁の保存状態が悪いため、
なんと、

壁はプロジェクタで絵が映し出されていた。



シヨン城が建っている岩盤の模型。陸から少し離れている岩盤で、城の堀が自然に出来上がっているわけ。













しゃべる椅子。座りながら、シヨン城を眺めて、聞き入る。
こいつはバイロンの詩のようなものをしゃべったが、やっぱり難しくて理解できなかった。



美しい湖岸の道。
(後記:この道を歩きながら、僕は大学院を休学しようと決意する。もう、このつらい研究はしばらくやめて休もう。本当にしたいことは何か考えよう。しかし本当の果てしない鬱はこの後にやってきたのだが。このときは、とにかく開放感で満たされていた事を覚えている。何も見えず、不安だったけれど、つらい、無意味な研究から離れることしか、考える事ができなかった)



お前、ちょっとここ来いや。



なんとしてもパレスホテルのなかにもぐりこみたい私は正装ですごすごともぐりこむのである。
(緊張するところが貧乏人の性)

金ぴかのトイレを撮って喜ぶ。



シンメトリー!(無意味)


色のない町、というのが僕のモントルーの印象なのだが、
なんというか、うまくいえないのだけれど、花とホテルはもうそれはそれは色だらけで、
それはものすごく彩度が高くて、色のない町のなかで初めて色に出会って息を飲むような、
そんな驚きに満ちているのでした。


モントルーをあとにしてまたローザンヌへ行く。EPFL(ローザンヌ工科大学)で行われる、BALELECなる
オールナイトイベントへいくのだ。

さようならフレディ。



お前、逃げんなや。


ローザンヌに着いて、駅で待ち合わせたJ君と一緒にD君の家に行く。D君の家には彼の友達が8人ぐらいすでに来ていた。
スイスはドイツ語圏とフランス語圏とイタリア語圏に分かれていて、そこにいたのはスイスジャーマン4人と
スイスフレンチ4人だった。基本的にフランス語で話していたが、僕とJ君にはまったくわからない。
F君(スイスフレンチ)とJ君と僕とでスイスの文化について話す。
スイスフレンチとスイスジャーマンが話し合うときには大抵フランス語か英語(!)を使うらしい。なぜなら、
スイスフレンチはフランス語とほとんど同じだけれど、スイスジャーマンはドイツ語とは非常に異なっていて、
スイスジャーマンはドイツ語を理解するけれど、ドイツ人はスイスジャーマンを理解しないという特殊な言語。
スイスフレンチは学校でドイツ語を習うけれども、スイス・ジャーマン語は習わないのだという。
わざわざスイスジャーマンと話すためにスイスジャーマン語を勉強するのも面倒だから、結局
会話は英語かフランス語になるという。
笑い話として、スイスフレンチはフランスのことがそんなに好きじゃなくて、
スイスジャーマンはドイツのことがそんなに好きじゃなくて、
スイスイタリアンはイタリアのことがそんなに好きじゃなくて、
でもスイスフレンチとスイスジャーマンが仲が良いかというと、おちょくりあったりする仲であって、
スイスフレンチいわくスイスジャーマンは頑固で何事もきちきちしている(ドイツ人くさい)と言い、
スイスジャーマンいわくスイスフレンチはいい加減で時間を守らない(フランス人くさい)と言う。
J君いわく、スイスフレンチよりもフランス人の方がもっといい加減らしい、ということで、
スイスに来ると少しはスイス的中和がなされるのだな、というのが第三者の感想。
ちなみにBALELECでスイス・イタリアンも耳にしたけれど、映画で聴くようなイタリア語よりも、
もうすこし母音のアクセントが弱く、短い感じがした。ちょっと聴いているだけでは、イタリア語だと
気づかないぐらい。フランス語みたいに、柔らかい感じがした。ちょっと洗練されている感じ、というと
イタリア人に怒られそうだけれど。
F君は日本のアニメオタクで、二人でラブひなの話で盛り上がった(ローザンヌまで来て何をしているのか。)
F君いわく、東大の学生証を見せただけでみんな「ははあー」ってやるのはクレージーだね。
F君「浪人」なんて言葉を知っていた。東大入るために2年も3年も浪人するんだよね?
僕は東大ブランドの幻想とその崩壊について話した。結局自分のやりたいことを持っていないで、
ブランドと思って入って、だけどもうブランドで取ってくれる企業なんてないし、むしろ世間から馬鹿にされるために
あるような名称が東大なのであって。自分が何をしたいかわからない精神的にお子様。実に俺のことだけど。
スイスでは大学入試は大学ごとではなくて共通の試験があって、受かった後に大学を選ぶのだけれど、
そこでは別にチューリッヒが凄いとか、ローザンヌが凄いとか、そういうブランドで選ぶ人は少なくて、
自分は何を勉強したいから、とか、家から近いから、とかいう理由で大学を決める人が多いそうだ。
晩御飯のパスタを食べてから、BALELECへ出かける。





大学の構内でこういうオールナイト企画を打てるというのはなんとも凄いことだと思った。
少なくとも日本の国立大がこんなことを許すような気はしない。ビール飲んだり、ライブしたり、
よく問題が起こらないなあと思うが、結構セキュリティの人も立っていた。
さすがスイスだけあって、3時ぐらいになると外のステージは寒かった。
寒いわ、眠いわ、泣きそうになっていて、3時ぐらいからしゃがんで寝たりおきたりしていた。
外ではマリファナをすっている人たちがいた。
一応法律に触れるのだろうけれど、スイスでは高校生時代、一度はマリファナの洗礼を受けるのだと言う。



このバンドはメタリカみたいなことをしていた。ほかのところでは、ジプシーバンドみたいな
音楽(映画「アンダーグラウンド」みたいな、あのパラパラパラパラパラパラパラパラって
暴走族みたいな回転する旋律の。)をやっていたり、ビートルズっぽいのやっていたり。



これが驚異の簡易トイレだ!思いっきり外。女の子が横を通っていく。
緑の筒があって、その筒が、ちょうどかぐや姫が出てくる竹みたいに斜めに口を開いていて、
そのなかに注ぎ込むわけ。


4時になってイベントはお開き。(ローザンヌではどんなイベントでも、4時までと言うことになっているらしく、
それはふつうのディスコテックでもそうなのだと言う。チューリッヒまで行くとオールナイトもあるとかないとか
なので、普段は4時以降は寒い寒いと言いながら始発まで待っているそうである)
D君の家はEPFLから歩いて15分のところにあって、歩いていって泊めさせてもらう。
もはや眠くてふらふらであまり覚えていない。