circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

2004/5/12

ジュネーブ、朝。



思いのほか早く起きてしまう。寝たのは遅かったのに。6時である。
朝の散歩は好きだ。適当にレマン湖のほうへと歩いていく。するといかにも立派な建物があって、
palais wilson と書いてある。国連創設の父である第28代アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの名前からきているらしい。
今はunited nations office of the high commissioner for human rights なる組織のヘッドクオーターに
なっているようだ。犬も歩けば国連組織に当たるのがジュネーブという都市であるらしい。

この建物の横を抜けてレマン湖を見る。
初めて見るレマン湖。朝6時24分、朝日。

ベンチに座って湖沿いの道を望む。ジュネーブの町。


朝日が湖に線を描いている。写真のせいだろうか。このように見えた記憶がないのだけれど。

ムンクの絵みたいだと思った。(http://www.edvard-munch.com/gallery/landscapes/mysteryOfSummerNight.htm


○6時半、朝のレマン湖畔。緑の濡れたベンチにて(ノート)
6時におきてしまった。4時間しか寝ていないけれど、
起きたからもったいないので起きる。朝の時間、
旅の朝はとても大事な時間だ。
ジョギングロードがあって、人が走っていく。
座っているのは僕だけだ。



ユースに帰って朝ごはん、9時になったのでスイス・ロマンド管に電話してみる。10フラン(1000円弱)の席が結構余っているらしい。
それを確かめたので、わざわざヴィクトリアホールに出向くこともなく、モントルーへと向かう。
Montreux駅、11時半。

向かいのホームの後ろの建物と建物の間(薄いベージュだ)に青い空と、
みわけのつかない湖がみえて、薄くかすんでいる。ぼうっとその間の空間をみていると、
向かいのホームを、ジーンズと目のさめるような白いジャケットを着た女性が、
空と湖の前を横切っていった。しばらくその残像に動けないでいて、
次に女性の歩いていった方向を追うと、エスカレータがあって、
彼女はすでに消えていた。



さらに隣駅territetへ向かう、ここにモントルーユースホステルがある。そこを世界で一番美しいユースホステルという人がいるらしい。



territetの駅。

無人駅。

テリテの町から望むモントルーの町。

ユースに荷物をおいてモントルーまで歩く。20分弱。湖沿いの花に満ちた美しい道を歩く。
中心部、カジノあたりから道の名前がquai ernest ansermetという名前になる。アンセルメ
(クイーンが使っていたマウンテン・スタジオはなくなってしまっていた。カジノを改修した際につぶされたらしい。
ツーリストインフォメーションのお姉さんによると。でも、サイトは残っている《後記:2012年現在サイトは消滅している》。
見てみると、いろいろ有名な人々が使っていたスタジオだったらしい。マーヴィン・ゲイ、YES、AC/DC、ZEP、ボウイ、ストーンズ…ふーん。)

アンセルメの名前がこんな中心につけられているなんて、と思う。そう、今日スイスロマンドのコンサートに行くんだ、と思う。
こういうふうにいろんな名詞がつながっていくのが旅行の楽しみだったりする。
イタリアに行ったとき、ヴェローナのオペラ劇場(http://www.arena.it/)でリゴレットを見て、
次の日に思わず、その舞台となったマントヴァの町に行ったのだった。ヴェローナはロミオとジュリエッタの町で、
ロミオが一時的に避難していたのもマントヴァの町だ。こういう偶然に身を任せることができて楽しいから、
旅行に出る前には計画をできるだけ立てないようにしているし、立ててもそれに縛られないようにしようと思っている。

フレディ・マーキュリー像。
「もしも心から安らぎたいなら、モントルーに行くといい」 フレディ・マーキュリー

クイーン最後のアルバム(フレディの死後に完成された)メイド・イン・ヘブンのジャケットを飾った像。(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000000OE7/ref=sr_aps_pm_8/249-6825594-6713114
山を背にして。

まるで飛んでいるようだった。彼がその最期の声を絞り出していたこのモントルーという場所で、僕の頭の中に鳴っていたのは、
アルバム「メイド・イン・ヘブン」の曲ではなかった。"Don't try so hard"という、フレディ生前最後のアルバム「イニュエンドウ」の中の曲だった。
しかしアルバム「イニュエンドウ」の中でも、おそらくもっともメイド・イン・ヘヴンに近い曲ではないかと思う。イニュエンドウというアルバムは
フレディの断末魔の叫びのようなアルバムで、そのボーカルの迫力はおそらくロック史上に燦然と輝くのではないかとかいい加減なことを
口走りたくなるほどすごいと思う。たとえるならベルリン・フィルマーラー9番を振るバーンスタインの唸り声ぐらい迫力がある。
しかしメイド・イン・ヘヴンにいたって彼の声はある意味弱く、もう夢を見ているようになっている。モントルーに来てみて、
ブライアン・メイメイド・イン・ヘヴンであの透明で平坦なシンセサイザーの音を多用している理由がなんとなくわかったような気がする。
ちょうどあの音のような、無色で水平な景色だ。イニュエンドウにおいて劇的な動きを見せることの多いように思われるシンセサイザーが、
Don't try so hardではあの平坦な伴奏をしているのだけれど、あそこでフレディが短調で悲しげに、そんなに張り切るなよ、と慰めるように
いっている声が頭から離れなかった。そして、しばらくその短調を繰り返した挙句に、この曲が突然長調に切り替わる場面を思い出したのだった。
そう、あそこでフレディは"Oh, what a beautiful world! This is simple life for me"と歌っていたではないか!ブライアン・メイ
ギター多重録音が久しぶりに出てきて、上昇する輝かしいハーモニー(半音階を4つ上がる)を挿入していたではないか。
頭はその音でいっぱいになった。たしかに、あのときフレディは飛んでいたのだ("I can fly, My friend!!")
そして彼は今、透明で平坦なレマン湖に向かって飛び続けているのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=bdoZEmiNXJY


広場の奥から。

正面から見たフレさん。マイクを握り締めている。


モントルー駅前通り。どこぼことしたバルコニーがきれい。


テリテからモントルーまでの道沿いは花にあふれていて。花通りという名前がついている。


これはホテルかなあ。



花通りからアンセルメ通りのほうを望む。


あちら側への船着場  (二回更新すると写真が見れます)


ひかりが降ってくる。  (同上)


怖いぐらい美しかった。確かにフレディは向こうへ行ったのだ。確かにリヒャルト・シュトラウスも向こうに死を見ていたのだと思う。リヒャルトは最後の四つの歌の中でも最後に作られた曲「9月」をここモントルーで書いた(http://www.asahi-net.or.jp/~RD6Y-TKB/SwissMusic_index.html)。
「夏はその疲れた大きな目を閉じる」、という「9月」の夏の死に、彼は自身の死を重ねていたのだと思う。
あのホルンのメロディーの平坦な美しさを思う。いろいろなメロディーを頭に浮かべてみても、
あれほどまで美しいメロディーがあっただろうか。もはや地上のものとは思えないように。
最期にこのホルンのメロディーを残して死んだ彼の死に方に、僕はこの上なく憧れる。


コンサートのためにジュネーブの町に戻る。市電が走っている。

19時46分、まだまだ明るい。ヨーロッパという土地は日本より確かにずっと北にあるのだなあと思う。
ローマでさえ、日本でいうと函館ぐらいの緯度なのだから。ジュネーブとなると、宗谷岬を超えるのである。
昼が長いのはうらやましい。一日がずっと長くて、学校が5時に終わると、9時まで外で遊ぶことができる。
ただし、コンサートに行く前にこの明るさ、というのは少し興ざめではあるかもしれないけれど。



ジュネーブの中心を流れるローヌ川
そして例によって小さな中州があって建物が立っている。地図で見ると驚いたことにこの小さな島の両端の通りにすら名前が着いている。
僕は小さいころ通りの名前を覚えるのが好きで、京都の地図に載っている通りの名前を全部覚えて、新丸太町通りが二つあるだとか、
ワープする通りがあるだとか、釜座通りは府庁前だけ太くて丸太町を越えると急に細くなってかわいそうだとか(通りに感情移入するのである)
標識における交差点の名前で通りを戦わせて強さを考えるだとか(たとえば河原町三条だから三条より河原町が強くて、三条花見小路だから
花見小路より三条が強い。大体見ていると法則性が見えてきて、同じレベルの太さだと大抵縦の通りが勝つのである。
(京都は堀川と五条以外ほとんど太くても片道2車線だからもし縦2車線対横1車線では縦2車線が大体勝つ)
でも四条通りは横なのに非常に強かったりする、だとか、つまらないことをたくさん考えて喜んでいた。
自分のうちの前の小さな通りにも名前がついていたらいいのに、というと、母が、ヨーロッパにはどんなに小さな通りにも
名前が着いているよといったので、なんと楽しいことだろう、京都もそうだったら良かったのに、と思ったことを思い出した。



ヴィクトリアホール入り口。ヴィクトリアというのはイギリスのヴィクトリア女王にちなんでいて、多分資金を出したのだろう。
彼女自身ジュネーブに住んでいたことがあるらしい。



まあ豪華絢爛という感じである。ウィーンの楽友会館みたいにきんきらきんである。音もなんとなく似ていたような気がする。
某ページによると”(アンセルメが)来日した時に、残響の少ない日本のホールでは、スイス・ロマンド管弦楽団の真価を伝えられないと言って、
「ぜひヴィクトリア・ホールで聞いてほしい」と言ったそうですが、このホールは響きの良いことで知られ、
バックハウスがピアノ・ソナタ全集を録音する際にもこのヴィクトリア・ホールが選ばれています”
とのこと。
フルート、ホルン、チェロの響きがやわらかい。でも硬さもしっかり残っていて、
あまりにもやわらかかったドヴォルザーク・ホールとは違う感じ。迫力のある演奏も可能なはずだと思う。(僕はドヴォジャークホールはだいすきですけど)



注目は打楽器の位置。舞台が狭く、管楽器はひな壇のように3列ぐらいに上がっていくのであるが、
さらにその上の2段分を使って打楽器がおいてある。ティンパニ4つが並べてあって、
4人の打楽器奏者がベルリオーズ「幻想」の雷をそこで叩くのである。舞台中央、それもずいぶん上部から!
これは見物だった。さらにすごかったのは、5楽章でその階段2段分並んだ打楽器が最後の3連符を一斉に
振り下ろしている姿が、丸々きれいに見えたことで、これはもう圧巻というほかなかった。
あそこで速くせずにテンポを一定にしてくれたので、その迫ってくる感じ、リズムが上から降ってくる感じが強くて。
そして最後、最上段左のシンバルが思いきり!鳴るのである。
プログラムはチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトとベルリオーズ「幻想」だったのだけれど、
チャイコフスキーのほうは、いつかN響アワーで池辺さんがこの曲は若い演奏者に大暴れしてほしい曲ですね、
といっていたのが、本当にそうだと思った。というのも、今回の彼は、若いのに、演奏は実に落ち着いてしまっていて、
すべての音を丁寧に引きすぎていて勢いがなかった。しかしこんなに盛り上がらない演奏でも終わった瞬間に
2階バルコニー席の人がいっせいに立ってブラボーという。いい人たちだ。
(ひょっとしたら演奏者の顔を見たかったという理由もあるのかもしれない。
演奏中に立って聴いている人たちもいたぐらいだから。なにしろバルコニーからは角度的に演奏者が見えないので。)
5回ぐらい演奏者を呼び戻す。拍手が手拍子になる。久しぶりの現象だ。シャルル・ミュンシュが自伝で次のように書いていたのを思い出した。
「聴衆はきっと、ロンドンでは、ブエノスアイレスと同じ仕方で自分の感激をあらわしはしないだろう。口笛を吹かれても、
シカゴでは喜びなさい。しかしこの意思表示をマンチェスターでは賛辞と取り違えないようにしなさい。メキシコで聴衆が
コンサートの終わりにものも言わずに立ち上がったら、それは極度の満足のしるしであり、最後の曲のアンコールを求める催促である。
マドリードであなたに大成功のように思われるものは、もしかするとごくありきたりの成功でしかないかもしれない。
ラテン民族の聴衆は拍手喝采を惜しまないからだ。しかし、もしもアムステルダムで控えめな賞賛し変えなかったことを残念に思うなら、
あなたより前の誰よりも、この厳しいオランダで、同じぐらい熱烈な称賛をおそらく受けたことがないと思いなさい。
このように土地が変わると、もしかすると失敗でしかないかも知れぬことで有頂天にさせられたり、
よく考えると大成功であることによって落胆させられたりする恐れがある。」


コンサートが終わって、ホールを出るともう暗かった。10時半の電車を乗り過ごしたので、11時
半の終電を待つ間、ネットカフェに行ったが自分のサイトにaaaなどと打っただけで時間が終わってし
まう。町を歩く。アーミーナイフがかに道楽をしていて思わず笑う。
動画) リンクをあけてもう一度更新すればダウンロード可能



日本・中華料理屋というのがあって思わずのけぞる。かつてバングラデシュでタイ・中華料理屋とい
うのに入って、タイ料理と中華料理が出てくるのかと思ったら、「タイ料理みたいな味の中華料理」
と「中華料理みたいな味のタイ料理」が出てきてのけぞったことがある。ここで中華料理みたいな日
本料理が出たりしていないことを。日本料理を誤解されるといやだもんね、とこういうときには結構
日本がすきなのである。
ここには入らずに、近くのピッツェリアに入る。



ピッツァを食べようと思うが、チーズフォンデュの誘惑の前に倒れる。一人でチーズフォンデュの図。

チーズフォンデュ。やり方がわからないので店のおばさんに教えてもらう。それでもわからないので
あたふたしていると隣の席の若者3人が親切に教えてくれる。パンを手をちぎって、いや、もっと小さ
く!(それは驚くほど小さくちぎるのである)それから5秒間チーズをかき混ぜて、フォークを鍋の端
に載せてしばらくくるくる回して、チーズが落ちなくなったら、食べる。と。めるしーと言うと、プレ
ーゴといわれてのけぞる。店のおばさんはフランス語のRが発音できていない。巻き舌になっている。
と思えば、奥のほうでイタリア語でしゃべっていた。そういえばイタリアのおばさんっぽく見えてくる
のが面白い。


終電に乗ってモントルーに帰る。睡眠は短いし、時差ボケだし、電車の中で何度もうとうとして、やば
い、このままではモントルーを乗り過ごしてしまう、それは大変だと言うことで、ヴェヴェイの駅につ
いてからはずっと立っていた。(ヴェヴェイはネスレの本社がある町だ。)
なんとか起きたまま着いて、駅からYHまで20分かけて歩く、夜の道、夜のフレさん、光る夜のカジノ。

あまり人はいなかった。フレディが最期の録音をしていたこの場所が、今はカジノになっているという
のは(カジノは元からあって、改修してスタジオを飲み込んだのだが)、いかにもフレディらしくて、
良かったんじゃないかなと思った。