circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

《ノートにはさまれていた紙片。中学三年、とあるからもう少し時期は後になる》

近頃、一人で部屋に籠もって勉強しているとき、何かしら空虚でやりきれない気持ちで胸がいっぱいになってしまうことがある。僕は何のために勉強しているのか。数学や理科を習得したところで、本当にかしこい人間なのか。
深い空虚感に襲われるとき、僕は本を開く。あるときは笑い、あるときはとても純粋な気持ちになり、あるときは深刻な苦悩を背負い、あるときは叶わない憧れを抱く。
そして本を閉じる。すると本にインスピレーションを得た考えが湧き出てくる。僕はそれをノートに書きとめる。そうしているうちに最初の心の虚ろさが、それが投げかけてくる疑問に対するはっきりとした回答は見出せないにしろ、だんだん晴れてくるのである。
勉強ができることが何の意味があるだろう。彼/彼女が「考えること」のできない人間だったら、<人間としての>価値がそこにあるのだろうか。人間がただ「考える葦」なのならば。
オウム真理教事件は、恐ろしく勉強ができる人たちが、自分で考えられなくなった結果だとおもう。彼らに欠けていたのは想像力だとおもう。戦争の苦労や、金や食物に本当に困るようなことがなかった温室育ちだから、考えることができないのだとおもう。本当の苦労を知らない僕らの世代が考えることができるようになるためには、すばらしい文学作品にふれるしかない。それを踏み台にしていろいろ考えることしかない。
中学二年生のときは自分の成績がよくなかったので、何も考えずにひたすら勉強した。でも成績はあまり上がらなくてストレスの塊みたいになっていた。そのときは読書などしなかった。三年生になってから、思う所があって、本をまた読み始めた。自分をもう一度見直してみた。そうしたら、少し気楽になれた。考えるということの重要性に気付いたのだ。
勉強することはいいことかもしれない、けど、人間はコンピュータになってはいけない。自分はいったい何のために勉強しているのか考える自由が僕らにはあり、コンピュータにはない。僕らはなぜ、何のために生きているのか。僕ははっきりした答えを持てていない。だけど、まず考えること、本を読んで思索すること、それ自体が大切なことだとおもうし、その回答はあくまでその産物に過ぎないのではないかとおもう。
受験期は忙しい。そんなことをやっていられるか、という人は多いだろう。しかし、受験期だからこそ、考えなくてはいけないことは多いと僕は思う。僕は常に「考える人」でいたい。