circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

やわらかさのためにいきている。たぶんそうなんだとおもう。ぼくはやわらかさのためにいきている。ゆめはかなえるものではなくてみるものだとおもうほうだ。ゆめをみながらふわふわとあるいていて、いつかふとしぬんだろう。げんじつをみたくはないのかもしれない。わからない。


大学に行って友人と無限について話す。野矢茂樹「無限論の教室」を二人とも読んでいて。http://www.amazon.co.jp/%E7%84%A1%E9%99%90%E8%AB%96%E3%81%AE%E6%95%99%E5%AE%A4-%E9%87%8E%E7%9F%A2-%E8%8C%82%E6%A8%B9/dp/4061494201
無限というものを「数」として「実在」のものとして捉える「実無限」派と、無限というものをある試行の絶えざる「繰り返し」という「可能性」として捉える「可能無限」派に、無限論は分かれる。この本は可能無限の立場から実無限を批判していく形がとられていて、高校数学からずっと実無限的思考を刷り込まれてきた僕としてはこれは驚きの本だった。特に、√2が無理数であることの証明を高校数学の背理法で見たときに、僕はものすごい違和感を感じたのをずっと覚えていて、10年ぐらい悩んでいたのだけれど、それがすっと消えたのには驚いた。√2が無理数であることの証明は、背理法を用いて、√2が有理数であると仮定し、それが矛盾を導くため、仮定が間違っていたとして、よって√2は無理数であると結論するのである。詳しくはこのページの例題 3.3.2を参照http://aozoragakuen.sakura.ne.jp/houhouN/node41.html
で、僕が激しく違和感を感じたのは、√2が有理数だと仮定して矛盾が生じる、まではOKなのだが、だからといってどうして今度は√2が無理数と言えるのか。少なくとも、有理数ではない、と言えるのはOKだった。だけど、そこまでであって、無理数だと言うことはいえないのではないか?有理数でも無理数でもないかもしれないではないか、と言うことだった。その疑問を僕は誰にもぶつけることができなくて、教科書に書いてあるのだから正しいのだろうと思いながら煩悶した。そして、ようやく今になってこの本で分かったことには、可能無限の立場に立つオランダの数学者ブラウアーは、無限に関する命題においての排中律(「AかAでないかどちらかだ」)を否定した。そのために、無限小数√2に関して、これが有理数無理数かどちらかだ、ということは言えなくなってしまう。なぜ無限に関する命題にたいして排中律を退けたのか。例えば円周率π=3.141592...がある。コンピュータが今数兆桁まで計算している。ここで、無限に続くπの数字の並びに、7が10回並ぶか並ばないかどちらかだ、という文は正しいだろうか、間違っているだろうか。そういう問いをブラウアーはしている。いままでの計算では7が10回並んでいることは発見されていないとしよう(本当はどうか知らないけれど)。となると、これはコンピュータが解き明かしていくプロセスの予言をしていることになる。まだ存在していないπの展開部分についての予言である。すると、まだ存在していないものについて7が10回つづくかつづかないかだどちらかだ、などと議論するのはナンセンスではないか。なぜなら、まだ存在していないものというのは、幽霊であって、幽霊には足があるか足がないかどちらかだ、と主張されても、幽霊を信じない人間にとってはナンセンスだからだ。足がある状態とない状態が混じっているかもしれないではないか。実在しないんだからそんな言明もゆるされよう。さて、√2という無限小「数」を「数」として認めず、いまだ存在しない幽霊とみなす立場としては、その幽霊が有理数無理数かどちらかだ、などというのはナンセンスで、議論の対象がそもそも有理数でも無理数でもないかもしれないではないか。とまあそういうことになる。

ぼくの性格は、そもそも2分法が嫌いな性格だし、AかBかどっちかだ、と言われれば、進んでCを探す性格だったし、これからもそうだろう。人生で岐路に立ってどちらかを選択せよと言われたときに、ぼくは立ち止まって第三の道を探してしまう男だ。男と書いたけれど、ぼくは自分を男だと認めることに躊躇を覚える。ぼくはぼくに対して男と言うものを押し付けてくる世の中を憎むし、男は男らしくあれというような人間を軽蔑する。アンビギュイティを愛する。より弱いものを、より少ないものを愛する。竹を割ったような性格というものに憧れもするけれど、ぼくはどうしても豆腐のような人間なので、割ろうとしてもどこまでも崩れたり逃げたりして2つには割れない。割り切るのが苦手だ。捨てるのが苦手だ。そういう自分が結局は好きだ。男であるということを押し付けられると、ぼくはどうにかして女性的になろうと努力してしまう。髪の毛を伸ばしてみたり、やわらかくあろうとしたり、しなやかにうごこうとしたりする。

実無限という立場をはじめて世の中に打ち立てたカントールは、その自分の理論に自信がもてず、理解されたい人に理解されなかったりいじめられたりして、精神崩壊を経験し、精神病院を出たり入ったりして、結局地方都市ハレの精神病院患者として一生を終える。無限という実体の無いものを実体のあるものとして捉えなおすカントールの実無限は、多くの矛盾を巻き起こし、カントールの人生を苦悩の連続にする。それでもカントールが実無限に拘ったのは、思惟の対象となるものすべてを実在のものとして数学的に捉えたいという願いがあったのかもしれない。しかしそれは実に鬱な世界だった。無限というこの世には存在しない、人間の頭にしか存在しないものを、全てをご存知の神が一気に与えてくれたかのように、実在のものとして捉えると言うこと。それは、極限の理想主義のようにも思える。現実には存在しないユートピアについて、それを現実の中で語ろうとすること。そうすれば、現実という実在を見たときに、理想とのギャップをどうしても埋められずに鬱になることは目に見えている。


ぼくはゆめはかなえるものではなくてみるものだとおもう。しかしめがときどきさめてげんじつをみつめてしまうことがある。ときどきではなくてひんぱんにある。そんなときぼくはしのうとおもう。ときどきではなくてひんぱんにそうおもう。


下手をすれば鬱思想である実無限にたいして、可能無限派は無限を認めつつ、それは現実世界での試行の上限の無い繰り返しだと捉える。一回一回の試行で、確実に何かに近づいていく。その限界が、かぎりなくのびていくということ。しかしその限界は、あるひとつの値に収束することはない。いつまでも近づいていくことをやめない。これはとても健康な思想ではないか。


ゆめはみるものじゃなくかなえるものだというひとがいる。そんなひとはつまらないとおもう。ゆめをかなえてしまったあとにのこるのはいったいなんなのかとおもう。つぎのゆめがでてくるというのなら、まえのゆめはなんだったのだろう。ぼくにとってゆめはそんなにつぎつぎとシャツのようにぬぎすてられるべきかるがるしいものなんかじゃない。げんじつでじつげんしてつぎつぎすてられていくようなゆめならばさいしょからゆめみたくはない。あるひとがむこうからあるいてきてぼくにささやく。ゆめはみるものでもかなえるものでもない、と。ちかづくものだ。と、そういってさっていく。ぼくはそうなのかもしれないとおもう。ゆめにはいつまでもちかづいていけるだろう。けれどもいつまでもかなうことはけしてない。ゆめをいだきつづけながらいきることはかのうなのだ。それはまえのゆめをつぎつぎとけしていくことではない。いつまでもりそうにちかづいていくことはできる。りそうとげんじつにギャップはいつもあるけれど、そのギャップはどこまでもちぢめていくことはできる。うまることはえいえんにないだろう。うめてしまえば、つまらない。うまらないままに、うめようとあきらめずにつづけること、それがいきるということだ。じさつするということは、ちかづくということをやめてしまうことで、それはいちばんゆめからとおいばしょへいってしまうことになる。


実無限でも可能無限でもない立場に有限主義がある。これは無限を認めない立場だ。あるいは、これを人生の立場に翻訳すれば、おそらくユートピアを求めない立場、夢を追わない立場だ。現実主義とも言う。ぼくはこのたちばがじつはだいきらいだ。りそうは、にんげんのそんげんだとおもう。できればおなじりそうをきょうゆうできればいい。りそうをきょうゆうすることは、りそうのじつげんをきょうゆうすることよりはずっとかんたんなはずなのに、それをあきらめてげんじつしゅぎにはしると、みんながかたくなになり、けんかをはじめ、じぶんのげんじつせかいでのとりぶんをあらそうことになる。ジョン・レノンのベストアルバムの日本語解説を書いたライターは、"Imagine"のことを、理想主義にたいするジョンのよくできた諧謔精神だと書き、それを高校時代に読んだ私は、こいつは一度死んだほうがいい、と思った。


http://www.youtube.com/watch?v=ytz_sLKr39A


imagine


想像してごらん 天国なんてないと
やってみれば簡単なこと
足下に地獄はなく
頭上にはただ空がある
想像してごらん すべての人が
今日のために生きていると

想像してごらん 国なんかないと
そんなに難しいことじゃない
殺したり死んだりする理由はなく
宗教もないと
想像してごらん すべての人が
平和のうちに暮らしていると

想像してごらん 所有などないと
きみにはできるかな
欲をはったり飢えたりする必要がなく
人類はみな兄弟であると
想像してごらん すべての人々が
世界を共有していると

きみはぼくを夢想家だというかもしれない
だけど夢想家は僕ひとりじゃない
いつかきみがぼくらに参加してくれたらいいな
そうすれば世界はひとつに結ばれるんだ


Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace...

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world...

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you 'll join us
And the world will be as one

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高校時代からぼくはこの二連目と最後連が忘れられない。ジョン・レノンは自分がdreamerであるかもしれない、といってから、それを否定しないのである。きみはそういうかもしれない。いや、ちがうんだよ。とはいわない。あえて否定しないで、「でもそれはぼく一人なんかじゃない」と言う。そしてきみがそのきみの言うところの夢想家に加わってくれれば、いつか世界は一つになるのだと言う。これは空虚な理想主義ではないと思う。自分の利益を投げ打ってより良い世界を共有したいという思いはみんなにあるはずだし、その理想の共有を目指したうえで、現実をその理想に漸近させていくというのは、非常に健康的な理想主義だと思う。理想を掲げずに現実に対処していくのみならば、国境はますます軍備され、欲と飢えの局在化が進む一方になってしまう。でもそうなっていないのは、どこかで人類の理想主義が正しく働いているからで、その力を信じて推し進めることができれば、よりよい世界に近づいていけるはずだ。きみはぼくのことを世界系とか中二病とか言うかもしれない。だけど、世界のことを考えず、自分の中に中二のころの熱い眼差しを持たないで生きるならば、どうして自分の純粋を貫けるだろうか。