circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

blogやmixiや、もっとさかのぼると投稿フォームというものが、たとえばnotepadなどのtexteditorでhtmlファイルを作成してftpするという行為と何が一番大きく違うかというと、それは多分、面倒くささが減った、じゃなくて、いま、この「窓」に話しかけているという、微温空間だからだと思う、この「窓」、webサイト上の投稿フォームや編集窓が。notepadやMSWordに言葉を打ち込んでいるときには、私は話しかけていない。向こう側に人はいない。


でもいま、こうやってはてな「窓」に言葉を打ち込みながら、わたしははてな「窓」から手を差し出している。インターネット空間へ。微温空間へ。そこには誰かが居て、誰かが私が差し伸べた手に触れたり、握ったり、唾したりする。実際には、「この内容を登録する」というぼたんを押さないと、手を差し伸べることはできないのだけれど、それは私にとってほんの1クリックの動作であって、私にとっての手を差し伸べるという行為は、この窓にこうやって文字を打ち込むということのほうがずっと重みがあることなのです。


微温空間の向こうに誰が居るのかよくわからない。私はあの世ではないかと思っています。ここを呼んでくれている人で、多分あの世に居るんだと思っている人が何人か居ます。あの世なんて存在しません。だけどあの世という概念は存在します。あの世はないと思っているけれど、あの世という概念に片足を突っ込んでいる人の、この世(はある)での存在のその分のあいまいさや薄さや輪郭のやわらかさが私は好きです。たとえばあなたはこの世に存在するけれど、この世で僕に会うことは二度とない。この世に存在したけれど、インターネット空間でしか接触したことがなくて、この世を去ってしまった人を僕は持っている(「持っている」というこの日本語は英語だと思ってください、体験、経験としての)けれど、私はもともとあの人とあの世で話していたような気がする。あの世という概念の中で。顔の見えない存在も証明できないインターネット空間の中で。


ここは危険な場所。危険、危険。赤い標識がたくさん立っていて、それでもその道を進み続けると、とても美しい緑の草原と、昔人が住んでいた廃墟がある。そこに、形のないあなたがいる。形のない私と形のないあなたは形のない会話をする(会話はもともと形がない)。あるいは沈黙している。沈黙は好きだ。できれば、沈黙しながらコミュニケーションができればいいなと思う。何かが伝わればいい。誤解だっていい。そりゃ、誤解じゃないに越したことはないけれど。あなたが美しい人だったらいいなと思う。顔や体が美しければいい、という意味ではない、というのはうそ、もちろんそれは本当、だけど、その皮膚の内側の3ミリと、外側の3ミリが、美しければいいなと思う、あなたのすこし内側にあるものと、あなたの皮膚から出て行かざるをえないあなたのオーラのようなもの。この世に確定的に存在するのではなく、王子さまの言葉を借りるなら、「こころの目」でしか見えないもの。あなたがこころの目に美しければいいなと思う。わたしはこころの目に美しくなりたいと思う。


少年よ。答えのない問いを問い続けた少年よ。問いを捨てた少年よ。とりあえずはひとつの答えを僕は見つけたんだ。それは偶然なんだけれど。君が性を否定したときに、君に見えていなかった視界が今僕には見える。それはさっき言った「あの世という概念」なのだと思う。言葉として伝えないこと。論理として伝えないこと。皮膚と皮膚の内側の3ミリと皮膚の外側の3ミリをできるだけできるだけ近づけて、沈黙していること、あるいは息をめぐらせること、あなたの息のめぐらしを聴き、あなたの気持ちよさをわたしは想像する(それは誤解かもしれないそれは演技かもしれない、けれど)。あるいは意味のない言葉で会話すること、叫びを聴くこと。この世で確定的に存在している人がその確定的な境界を失い、裸になるということは、それは論理の世界ではなくて詩の世界だ。そして論理ではなく詩を求めていた君にとって性というのは否定すべきものではとくになかった。いや、否定すべき性のあり方も存在する。君はそっちのほうしか見ていなかった、というべきなんだろう。死に近づきたかった君にひとつだけ伝えることがあるとすれば、僕が今までの僕の人生のどこかをはさみでトリミングされてしまって死んでしまうとすれば、最後の時を、ある女の子の部屋でずっと黙って、ずっとセックスしていたときを選ぶだろうということ、その女の子は恋人ですらなかったということ、僕はそのとき生きながらもっとも死に近づいていた、死を望まないままに死に近づけていたということ、そしてもう僕は二度とあんな静かな死への近づき方はできないだろうということ、そしてそれがとても白い詩のようなものだった、君があんなにも賛美した白く美しい何か、そのものだった、ということなのです。