circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

非論理の方角へ

わたしはふくをきない
 
めをつぶってさんかくずわり
 
まどべ とおいけしき
  
(はだかのわたしなんてけがらわしいものがそとのひとのめにつかないことにいのりつつ)
 
まどべ とおいけしき
 
発見の単位が細分化されています。私はいまとても広義の言語学に興味があります。私は私のことを、私があこがれる人みたいにしたいです。私のあこがれる人たちはたいてい、、、JAVAで言うと、カプセル化されていて、外からは見えない変数やメソッドを持っています。そして、なんともいえないことに、あの人たちはなんらかの共通点を持っているのです。まるであの人たちをインスタンス化したクラスが存在するようなかんじです。私には私のあこがれる人たちのインターフェイスが大体同じに見えるのはそういうふうにすると説明がつきます。カプセル化されて、苦悩や激情はインスタンス変数として持っているけれど、それを決してメソッドで出していこうとしていないかのようです。
 
わたしはでも激情の人です。しかも外に晒しています。showpassionメソッドと、putpassionメソッド(激情を刺激される/あるいは抑圧される)でわたしのなかの激情インスタンス変数を思い切り外に関連付けています。だから/にもかかわらず あのカプセルにとじた人たちにあこがれます。あの人たちがカプセルから出してくるインスタンス変数は笑顔や疲れやときには怒りかも知れないけれど、度を越えた激情や絶望(あの伝染する感情!)をインスタンスメソッドで外へ発することはありません。

わたしはでもあの人たちのメソッドをちょこっと書き換えたいなという欲求があります。戻り値はわたしだけに設定して、あの人たちのカプセル化された中の感情を、すこしずつ、知りたいなという欲求があるのです。でも一方でそれは憧れをはなれていく行為です。憧れは聖化から始まっているし、メソッドによって外に晒されている、あの人たちの数少ないインスタンス変数から、隠されている多くのインスタンス変数をわたしは勝手に想像、空想しているのです。それは私の脳の中にすでに存在する「憧れ人物」クラスのインスタンスとして生成されます。そう、素敵な人に会うと、まず私の脳内で自分勝手に、すでにカテゴリ化された「憧れ人物」クラスのコンストラクタが動いてしまうのです。そして「脳内その人」の数多くのインスタンス変数をそのコンストラクタの中で、とってもすてきな既定値に設定してしまっています。その後、その人と接していく中で、その人自身が返してくるメソッドの値から(それはたいていshow_あるinstance変数というメソッドなのだけれど)、そのひとのなかのインスタンス変数を知り、私の脳内の妄想インスタンスの値を変えたり、そもそもクラスを変えてしまって、変数を増やしたりするのだと思います。

オブジェクト指向言語を現実で比喩することは混乱を招くから、するべきではない、と日経BP社の「オブジェクト指向でなぜつくるのか」に書いてありました(オブジェクト指向はなぜわかりにくいか、という題名にすべきだと思うぐらい、そのわかりにくさの根拠を衝いている本でした。すばらしかったです。)。いまわたしがしているのは現実をオブジェクト指向言語で比喩すると言うわりとナードな行為をしているわけですが、これも結局比喩としては失敗しています。インスタンスメソッドは呼び出されないと動かないけどあの人たちが自由に、動くのです。わたしが呼び出そうが呼び出すまいが。でもオブジェクト指向におけるオブジェクトは自分からは何もしません。そんな存在は魅力ではないのです。私が憧れる人の、魅力だと感じる部分は、謎な部分なのです。そのひとのなかのどんなインスタンス変数の組み合わせ(その組み合わせ方ももちろん外からはみえない)で、そのような行動(メソッド)を「自分で」動かしたのか、あるいはそのひとが外の世界からどのような値を受け取って(たとえば get_world(引数群)とかで。その引数群ももちろん私からは見えない)、動いているのか。私の興味はたぶん、そこにあるんだと思います。世界からどのような情報を摂取し、あの人のなかにどんな変数や関数が存在し、それをどういう関数で出力するのか。そしてあの人のなかにあるわたしはどのようなインスタンスとして存在するのか。こういったことはもはやすべて「わからない」ことばかりで、コンピュータで描ける世界では決してないものだし、比喩につかった変数だって、たとえば感情を、悲しみと哀しみにだれがわけることができるでしょうか。だれが因数分解したり量子化したり数値化したりできるでしょうか。

「世界はオブジェクトでできている」とUMLの教科書に書いてありました。たしかにそうかもしれない、だけどそれをUMLで表現できる(あるいはJAVAで実装できる)と言うつもりなら、わたしはおおきくNOと叫びます。カントが純粋理性批判で取り扱わないで実践理性批判であつかった部分。ヴィトゲンシュタインは「論理哲学論考」を「世界とは成立している事柄の総体である」と語り始め、「語りえないことについては沈黙せねばならない」で終えてしまったということ。わたしは語りえないことについて沈黙したくない。論理言語で語りえないなら、詩的言語で語ればいいし、芸術で語ればいいし、共感や感動や「ただ一緒にいること」で優しい気持ちになれるかもしれない。わたしは、人間のそういう力を信じたいし、そういう力にこそ興味がある。わたしはいつも天邪鬼だから、そういう力に興味があるにもかかわらず、まずはヴィトゲンシュタインをゆっくり読むことからはじめてしまうのだけれど。つまり論理の側から外側へ攻めて行って、「語りえないこと」の限界を測定すること。わたしが暗躍したい場所を求めること。

語りえない場所で生きようというのは、生きづらい生き方だと思っている。不安と恐怖に満ちている。言語化したり固定化したりできないのだもの。わたしは、地に足をつけていたいのだもの。だけど、飛ばなければならない。ぎりぎりの論理で滑走して、滑走して、滑走して、論理が追いつかなくなるところでやっぱり飛びたい。論理を諦めたくはないけれど、それに縛られて助走しかしないのはもういやだ。わたしは飛びたい。「語りえない」わけのわからないもの、美しいものや愛のために生きたい。憎悪はたぶん論理化できる。でも愛は論理化できない。だから戦争は起こりやすく調停はむずかしい。小林よしのりの「戦争論」に端を発するあの愛国主義にたいするわたしの感想は、「論理にこだわる人は国と国の論理に傾き、論理を無視する人は慈愛といって人と人の共感に傾く」ということに尽きる。わたしはもちろん前者ではない。だけど、論理を諦めてはならない。でも論理の基底には人間に対する愛と尊敬があって欲しい。でもそれは言葉でいえないことだし、まさか外交の場でうまく伝えることなんてできはしないだろう。言語化してしまえばおべっかにしかならないだろう。こういうわたしを人は偽善者と呼ぶだろう。わたしは偽善者かもしれない。わたしは「人間に対する愛と尊敬を信じたい」だけであって、わたしが真の意味で愛と尊敬で行動しているかと言うと大嘘だ。わたしはただの駄目人間だ。ごめんなさい。だけど、そうありたいのです。目を開いて論理のぎりぎりまで行って、いけなくなったところでさらに目を閉じて感じたいのです。人の発するオーラや、ちょっとした理由のないしぐさやくせや、歌いたくて仕方がない音楽や(音楽理論を無視したっていいとおもう)、ルールのない絵(マティスとルドンが晩年に至った世界)や、ルールのない映画(アレクサンデル・ソクーロフ!)や、そういった言語化できないものを、言語化できない苦しさを味わいながら、「詩」にするしかない、そういう意味で「詩」は言葉にできないものを言葉にすることだと思うのです。ピアノの詩人とかいう言葉は多分、理論からはみ出していってわけのわからない毒的な美しさを放ってしまった人、天使というよりは悪魔的な様相を帯びることすらある人に使われるような気がします。わたしはかつて(中高時代)天使になりたいと書いたことがあるけれど、わたしはいま、そういう意味でわたしにときどき悪魔が降りてきてくれないかと思います。それが鬱病を呼んでいるのかもしれませんが。ヴァージニア・ウルフを読もうと思って買ってきました。エミリ・ディキンソンをプリントアウトもしました。精神の病は芸術にプラスに働くのかどうかについて、もうすでに「鬱力」なんて本が出ていますけど、人の意見をさきに読むのは癪だから、自分で考えてみたいです。あ、漱石先生もだ!