circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ぽけー、のだめ14巻を読みながら、NHKFMをまた聴いていると、ピアノが流れてきた。http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p/001/07-04587.html イングリット・フリッターという人。ベートーベン32番が流れていた。熱演で、現代に珍しく(?)リズムの伸縮も綺麗で、いいな、とても、とおもった。その次にショパンマズルカが3つ来て、マズルカはあたしはあんまり好きではないのでポケーと聴いていたが、とても楽しそうで、ここぞというときにやっぱり伸縮が決まって、素敵だった。次にショパン舟歌ソナタ3番というとんでもない冒険が来た。こんな内的エネルギーがすごいのを2曲(5曲か)立て続けに弾けるもんなんか、とおもった。舟歌はよかった、けど、愛するソナタ3番が集中力が欠けていて、あー、なにか曲の本質をこの人はつかんでいないとおもった。局部的な情熱ではなくて、全4楽章全体で死に向かって突入・疾走していく基地外っぷり、がないとこの曲なんか表現し得ない。その意味でスクリャービン3番と同じだ。嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼あああああああああああああああああああああああああああああああああああああこれぐらいキチガイじみろ、止まるな伸びるな走り続けろ、先には死しかなくても、死に向かって生を燃やし尽くすのだ、というとんでもないテンションで弾いているのを一度聴いてしまった(しかも両方ともサンソン・フランソワの録音だった)のでたぶん、情熱の核のようなものがないと満足できないのだろう、でも、そういう、ある素晴らしい演奏ではじめて現れる本質というのがあるような気がわたしにはどうしてもする。そこはリズムを踏まねば、その半音階は叫ばなければ、というところでまったくその半音階が立ち現れてこない、踏みつけるべき和音が叫ばれていない、そして変なリズムの伸縮、だめだろう4楽章でそれやっちゃ!たとえば「ローマの松」4楽章でリズムを伸縮されてしまったみたいにショックだった。突き進まねばならない、アクセルを踏んでしまったら、踏み続けなければならない、もう二度と緩めては駄目なのだ、あれはそういう破滅への疾走だ。3楽章の憧れにしても、あまりにも憧れていない、一オクターブ上へ飛んでいくメロディーに、何の空間的な憧れの虹がかかっていない。悲しくなった。こういうのを聴くと、ああ、あたしピアノちゃんとやりたかった、と思う。いつか弾きたいと思うけれど、あたしには指がまわらない。かなしい。のだめを読みながら、のだめなら、と思う。悲しくなってきた。まったく、悲しくなってきた。のだめを読んでいると、あたしがずっと指揮者に憧れて生きてきたことが思い返されて、まったくああと思う。羨ましいなとおもう。指揮者がー、といっていたけど、怖かったし、まわりを説得させられるほど、あたしの情熱はなかったんだと思う。のだめとかなかったから、指揮者っていってもあんまり分からないだろうな、とおもったから、まわりにも言わなかった。あたしは大阪大学オケでショスタコ5番をふる佐渡さんをみて、嗚呼指揮者かっこいい、とおもったんだった。佐渡さんは最近元気がなくなってきてつまらないけど、あたしのバーンスタインへの憧れは消えなかった。あたしバーンスタインみたいになりたい。だけどあたしにはあたしの足元に音楽がない。ジャズとか弾きたい。なにかがない。作曲したい。でもなにかが足りない。あたしはいったいなにを音にしたいのか。たぶん半音階だったり、踏みつけるものだったり、イくまえのエクスタシー(でもぜったいさいごになってもイかない)みたいなもの、なんだとおもうんだけど。