circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

開拓

多分自分なんていないしアイデンティティとか言うのも一人でどうするとかいうんじゃないからあたしがこれからひとりぼっちになろうってのは社会に戻っていくためなんだとおもう。内面を掘り下げていけばそこには外と同じぐらいに広い宇宙があってどこまでもいけてしまうしそれはもうユング兄さんがオカルト的にやてしもたからそれをよめばいい。あたしはもっと楽しいことがしたいそもそも明るいほうがすきだしそもそもこども3にんのなかでいちばん健康だったんだあしはおそかったけど走り回っていたし叫びまわっていたし(てそれは今も変わっていないっちゃかわっていないけど)たぶん人とつながりたい外とつながりたい。自分の内面だけに触発されるなんてことは絶対なくてそとのだれかとふれあうから触発されるんだとおもう。GOOGLEをつくったのはふたりだしMS−DOSをつくったのだってふたりだったじゃないか。LINUXなんてせかいじゅうのちらばった数百人じゃないか。そのなかで「あたしの内面をみて!」とか言うの馬鹿でたぶんそういう「あたしの内面」的な部分は滲み出てくるなにかなんだとおもう。こだわりかたとか。「きみなんでこんなところにこってるの?」「いやこれかっこいいじゃん」とかだとおもう。うごかなきゃ。うごかなきゃ。うごかなきゃ。自己との闘いとかはもうおしまいにしなきゃ。おとなにならなきゃ。自分を偉い人たちにかさねる遊びはもうやめにして、あたしはあたしのできることをあたしなりにやるしかないんだ。それはたぶんあたしの「発見」じゃなくてあたしの「開拓」なんだとおもう、あたしの辺土を広げていって、そのなかであたしはあたしの特性を「発見」するかもしれないけれど、それは副産物であって目的じゃない。目的はたぶん楽しく生きること。もはや「自分を好きになる」ことすら目的じゃなくて、それすらも「楽しく生きる」ことから出てくる副産物なんだとおもう。楽しく生きている私が好き、とか、こんな変なところにおもわずこだわる私が好き、とか、そういうふうにあたしという存在はおのずから析出してしまうんだとおもう。だからあんまりあたしはあたしに牽制球をなげることはやめて、きちんとバッターと向き合うことにしよう。目の前にいるあなたを好きになろう。あなたからどうおもわれているかとかについてひとりでぐるぐるかんがえるのはやめにしようよ、もういいかげんに。

ということをひとりもくもくとしょこたんぶろぐと小明たん秘話をよみながらおもいました。あたしのあこがれはいつも「自意識が宇宙に飛んじゃってる女の子」であって「なやめる女の子」ではないし、当然「イケメンになる」とかありえないしだからかわいー女の子から「サキさんにはフェロモンを感じない」とか言われてもめげませんめげませんとも!変態を目指してるんじゃないんです。自分の辺土をすこしずつ開拓したいというだけなんです。内側を掘るのは変態を目指す方向かもしれないしいままでそれをしてしまっていたかもしれない。でももし仮にあたしがいますでに変態なのだとしたらそれを内側に掘ることによって矯正していくんじゃなくて辺土を開拓しながらなおるべくしてなおればいいしなおらなくても生きていけるならそれはそれで幸せなんじゃないかとおもう。あたらしいものがみたい。そういういみであたしはしょこたんの在り方にあこがれたりする(新しいひとりあそびがどんどんできて仕方がない、みたいなの、すごい素敵ありえない)。うちがわに対する接しかたのナチュラルさであたしは綿矢りさや若かりしときの中尾幸世にあこがれるつまりたとえば化粧をしないということ。髪を染めないということ。そのままでいるということ。演技しないということ、書かないということ。演技しないで演技できてしまい、書こうとしないで書けてしまうこと(だからあのひとたちはとても脆そうにみえる。たぶん綿矢さんはあのままの文体では持たないだろう。意識しないことにあのひとのすごさがあったから、プロとして立ってしまうと、なにかおおきく変わっていきそうな気がする(サガンみたいに)。書き慣れないでほしいな、とおもう。今日は「インストール」の文庫本を立ち読みしに行こう。インストールはもうよんだけれど、新作の短編が載っているらしいので。それから家に帰って、レオス・カラックス汚れた血」を壁に映して見て(せっかくかったプロジェクタをまだ開けてない!)、それからまた、京都に帰ろう、ぜったい京都帰るぞ、てか佐々木昭一郎特集をなんとかしないと!スカパーもっている人、激探そう。

しばらくは誰にも会わないからあたしモードでいようとおもう。いちばん平和な気持ちでいられるすごし方をしよう、と思うと、たぶんしぜんとそうなってしまうので。男としてモテタイカと言われると、あたしにも性欲があるので、そりゃモテタイさ、とおもうし、あたしの憧れる女の子たちとセックスしたいさ、とおもう。けれど、たぶんあたしは、セックスによって女の子を征服しようというのではなくて、女の子と同一になりたい、というよかむしろ、その子とシンクロ(エヴァ用法)して、そんなすてきな女の子とふたりでひとつのことができるという喜び、みたいなところにあって、だから普通の男の人と性について話しているとたいてい擦れ違う、ふつうの男の人は自分と女の子を絶対的な他者として捉えていて、自分が気持ちよくなることが重要とか、あるいは女の子を気持ちよくさせる俺のテクニックが重要とか、そういう風に捉えて、自分の欲を満たしているような気がするけど、たぶんあたしの場合は、憧れの人に少しでも近づきたいし、憧れの人が気持ちよくなればそれで自分が気持ちよくなるような精神の交通路が体全体の接触で生まれてくるんじゃないかとおもっているのだとおもう。だから食べたいとかおいしそうだとかおもうんだろう。男の子はいまのところあまりおいしそうではないし憧れたこともないので、たぶんゲイにはならないんだろうとおもう。あたしはたぶんあの人たちの体が本当の意味で欲しいのだとおもう。フジタが描いたフランスの女の子たちの肌が薄く壊れそうに白く、その上に描かれる乳首やくちびるのピンク色が透き通っていた、のは、フジタがそれに欲情していたからでは決してない、とおもう、たぶんそれがあんまり美しくて、欲情をよばなくて、そのいっしゅんのうつくしさを永遠に自分のすばらしい技術で残したかったんだとおもう(逆に藤代冥砂の撮るグラビアがいつもえろいのは、いつも彼が女の子を写真で犯しているからだとおもう、あれはあれですごいんだけど、あそこにはいつも藤代冥砂自身の姿が見える)−あたしはどちらかをえらべといわれたら迷わずに藤代ではなく藤田のありかたを選ぶだろう。モデルを対象化せずにモデルに溶け込むこと。フジタ的画法という自分のテクノロジーになりきって、フジタ的自我を捨てること。フジタ的写生。男にうまれたあたしとしてはセックス上は男として生きていくつもり、それがあたしにとってとてもナチュラルなことだとおもうから。ただセックスの在り方がフジシロ的ではなく、フジタ的射精になる、というだけのことなんだろう、とおもう。

というわけでしばらく恋人はできそうにありません。それはとても悲しいけれど、いまあたしはなにものでもないから、おとこでもおんなでもあたしでもないから、なにもできないから、あたしじしんがたのしくないから、あたしじしんを好きでないから、あたしが好きな人たちは、あたしを好きになってはくれないとおもうクレマチス

てなわけで難しい顔をしたり頭を抱えたりという行為はしばらく捨て去ります。たぶんもともといる(かもしれない)あこがれと接近と同一化と実験的行動モードに変換しようとおもいます。今のベートーベン的自己実現みたいな表出の仕方を変えたいと思う(苦しみを突き抜けて歓喜へ、的な)。純粋なカメラになりたい、ソクーロフみたいに。純粋な筆になりたい、フジタみたいに。(愛するオディロン・ルドンからはしばらく遠ざからねばならない、なぜなら彼は目を閉じる、彼の花を描く、彼の夢を描く。愛するラヴェルスクリャービンマーラーもバッハもビートルズも多分そう。)音楽ならばシガーロスジョアンを。あるいは後期シベリウスを、ペルトを、メシアンを、ラモーを、ジョスカン・デ・プレを。詩を書く(よむ)ならば吉増剛造みたいに。そして真っ白な詩集をつくりたい。"The Other Voice"。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4783713073/249-6255145-8495541?v=glance&n=465392

街や歴史を歩きたい。自分なりのパサージュ論を書きたい。きれいな人を探して散歩したい。目が澄んでいる人を。過去に生きていたひとでもいい。読んでいたり、鑑てみたり、聴いてみたりして、そうやって目が澄んでいそうな人を探そう。うちがわから晴れたようにわらうひとを、わらったときにものすごい光の量を発するようなひとを。時代と世界の四次元のどこかに、あたしを照らす人がいる(すでに一人いるのだけれど、いまは離れなくてはいけないので)

それがたぶん、吉増さんの言う「誰かの「心のひかり」を、光源にして世界をみること。」_The Other Voice_なのではないかとおもう(?)