circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

睡眠薬を飲まなかった。眠れなかった。朝早く起きてしまうのが鬱の特徴と本に書いてあった。寝る前はいつも死ぬ人みたいに寂しい。おきるときはいつも嫌いな人に謝りに行くみたいにつらい。眠りは浅くていつも職場の夢を見る。いつもおこられている。できなさは僕を拒食や立眩みや急に動けなくなる状態やものが読めない状態や「僕はどこにいるんだ?」状態へと追い込む。ひかりがほしい。

ほしいほしいばかり言っていて、人に何も与えようとしていないのがだめなんだと言う話もある。愛せよ、そうすれば愛されるだろう、と基督も言っている。近くの人を愛することができない。母や父を愛することができない。すこし遠くの人をいつも僕は愛そうとする。すこしだけ遠くの人。

とても遠くの人のことを思い出す。わたしときみや、いまといつかを、どこかわからない場所でひとり、一本の糸でつなぐ実験をしている人。でもこれは愛しているのではなくて憬れているんだと思う。

すこしだけ遠くの人のことをきちんと考えてみる。きみ、と呼びかけてみる(わたしのなかで)。わたしがきみに恋をしているというのは1+1=2と同じぐらいの確からしさだ、と園部駅で父の車を待ちながら思う。わたしは恋をやたらとするひとだけれど、そしてそのたびにそのひとを世界遺産みたいに思うのだけれど、きみはそれなら宇宙遺産だと思う。あの人と同じにおいがするひとを久しぶりに見た。あの人と重ねるのはやめるべきだと思う。きみはきみであってあの人ではない。きみのことをかんがえてきみのえがおのことを考えて、そのえがおがきみのうちがわからまっすぐに放たれたひかりだということをおもいだすのだけれど、その概念ばかりがおもいだされて、きみのえがおは雲のようにあいまいにかすんでいる。きみのひかりはわたしにはあんまりまぶしい。わたしは1+1=2の確からしさできみに恋しているけれど、おなじぐらいの確からしさで、わたしはきみにふさわしくないと思う。きみはもうすでにあんなにきれいに笑う。幸せという概念がこの世に降りてきたみたいに。そのたびにわたしは思う、わたしという暗闇がきみのせかいに必要であるはずがないと。死ぬことしか考えていない。きみは生きることしか考えていない。きみは生かすことしか考えていない。きみはみんなに愛されていて、そのことをわたしはとてもうれしい。きみはたぶん愛されてそだってきて、だからあんなにうちがわから晴れたようにわらう。はじめてきみがわらったときにその瞬間にわたしは射られた。はじめてきみをみたときだった。ものすごい光の量で射られた。あの人以来の光量だった。こんな人がまだ世の中にいるだなんて神様は残酷だと思った。わたしはもう余生をいかに過ごそうかと思っていたのに。神様はわたしに生きろといっている。明らかにそういっている。だけど、それはとてもむずかしいです。きみは生きる方向をはっきりと照らしてくれているけれど、わたしにはちからがないし、わたしはきみに愛されることも、愛されないことも、両方、怖いのです。残酷だとおもいます。きみという存在が残酷だと思います。わたしはあの人を愛して同時に憎んでいたように、まるであのときのように、きみに恋していて同時に憎んでいるのをかんじます。在り方として対抗できません。できなさ、をおもいます。できなさ、ばかり感じます。わたしはきみになにかをしてあげることができるのでしょうかそれいぜんにわたしはわたしを愛することができるのでしょうかわたしはきみにあいされることによってわたしを愛するという鏡のようなわたしの愛しかたをもう一度冒してしまいたいと思ってしまいそうですけれどそれはあまりにも軽率で怠慢です。あの人がわたしを嫌ったときにせかいが終わったのはあの人がわたしの存在の肯定だったからです。わたしはいつもわたしの存在を否定し続けていて、あの人がはじめてわたしをまぶしくてらしてくれた、存在を、肯定してくれた、のに、憎まれてしまった、ので、また、わたしは、わたしの存在を否定して、よけいに否定して、しまったのだとおもいます。わたしはわたしだけでわたしを肯定できなければきみに正対できません。わたしはきみに正対したいのでしょうか。背を向けて死に向かいたいのでしょうか。きみはおそるべき生の源泉をもっていて、あんまりにもまぶしくて、きみに正対できるほどに、わたしはわたしの生を愛することができるとはどうしても思えなくて、卑怯にも後ろを向いています。でもきみをいまわたしに見せたのはたぶん神様だとおもう(わたしをきみにみせたのは神様ではないとおもうけれど)。だとすれば、きみは蜘蛛の糸なのだと思います。きみを憎みたくない。きみを大切にしたい。きみを幸せにしたい(すでにとてもしあわせそうだけど)。けどそのまえにわたしがすべきことがあって、つまりわたしひとりで幸せになれなくてはいけなくて、わたしじしんをすきにならなくてはいけなくて、そのためにわたしはいま休んでいるんだとおもう。ながいながいトンネルにいて、ひかりがないと思っていたけれど、たぶん遠くでひかりがあって、それがたぶんきみ(という形を取った生そのもの)だとおもいます。それはたぶんきみでなくてもいいのかもしれません。ただぐうぜんそれがきみだっただけだとおもう。けれど、一瞬でひかりで射ることができるひとを、わたしは過去に2度しかみたことはないし、たぶん、いまのわたしにとっては、きみが、きみでなくてはいけないのだとおもう。いっていることがわけがわかりません。寝たほうがいいんだろうとおもいます。健康になりたいです。きみに正対できるぐらい健康になりたいです。まぶしくていまだに正視することができなくて、わたしは逃げたのかもしれないし、あるいは正視できるようになるために、わたしは回復の時間をもらったのかもしれません。

ねます。