circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

物語のなかでわたしは女の子である(なぜならわたしは昔から女の子になりたかったので;だけど、なぜかわからないけれど、現実のぼくはゲイではなく、女の子に恋をする。だけどこれはまた別のはなしだ)。わたしは瀕死で、恋人が看病している。家は森が近い田舎にある。場面は、わたしがベッドに寝ていて、死ぬ前の走馬灯がまわりはじめるところからはじまる。
 
やがてわたしの頭の中の走馬灯が走り終わり、わたしは森にいきたいと言う。恋人はちからづよい腕で、わたしを針のように持ち上げる。空はぬあーと曇っていて、日が射さない。恋人はわたしを抱いたまま森の中へ入っていく。森の中にはひろばがあり、そこに昔わたしたちが戯れたベンチがある。それはかつて恋人が木を切って作ったものだ。
   
わたしをベンチに横たえると、恋人は花を摘みに行く。目をつむっていると、ひかりが雲と森を抜けてきて、ひろば全体が明るくなり、気が付くとベンチの周りに色とりどりの花が咲く。だんだんと、ベンチがやわらかくなってくる。
 
わたしのそとはひかりに満ち溢れ、わたしのなかには闇が徐々に広がりはじめる。 
  
鳥がどこかで鳴いている、パド・ルー、パド・ルー。
 
わたしの命がやみに消えたあと、花を摘んで恋人が帰ってくる。恋人はたぶん泣かない。摘んできた花をわたしとわたしのベンチの周りに撒く。
 
わたしはそれを空から見ていて、森の中のひろばは、まるで光の射す花時計のようだ。
 
 

 
 
暇になると自分の死に方で一番美しいものを考える。自分が死ぬことで悲しむ人がいるってことを考えたりしない。自己中心的だ、と思う。僕は人を幸せにしたかったはずなのに。結局自己中に死ぬことしか考えていないのだから、それもただの偽善なんだろう。あるいはこれは鬱病なのか?あるいはこれは僕の性格なのか?
 
死ぬ瞬間と言うのはいつも恐ろしく甘い映像になってわたしの頭をよぎる。夕焼けにビルから身を投げるわたし、聖なる山の中で足を滑らせて崖から落ちていくわたし、河に流されて滝の中に消えるわたし、薬を飲んで眠りに落ちてそのまま目覚めないわたし。あとは野となれ山となれ。
 
いけない、いけない、鬱病の甘い妄想に負けちゃいけない。とわたしはフロドみたいにつぶやく。鬱病は火山の火口に投げ捨てて、自分を取り戻して帰ってくるのだ。鬱病を治すと言うのは、きっとそういう旅なんだろう。