circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

20060326-2

、と言う共作詩をベンズで読む。私が一人で書いた後半は実にひどいし、朗読も、途中で号泣してしまって、とてもみっともない朗読になってしまった。けれど、そのみっともなさが私らしくてよかったと自分では思う。後悔していない。朗読前、偶然性(アン−コントロール)のコントロールをいかにするかを考えに考えた挙句挑んだのだけれど、アン−コントロールをコントロールできずに、身体が泣き始めてしまって、そこまでの偶然性までは想定外だったので、ほんとうにイントネーションや間やそういった細かい大事なものがしゃくりあげる中に消えてしまって、完成度としてはひどいものだったけれど、でもそれでよかったのだと思う、私がやりたかったのは多分供養であって、素敵なパフォーマンスではなかったのだ。私の身体がきっとそう思ったのだ。今日一日、ものすごく鬱が大変だったけれど、号泣して読んで、浄化された気がした。
  
すごく緊張して、武満/谷川の「三月のうた」を裏声で音痴に歌いながら、舞台へ上がってマイクをいじって下へ伸ばし(先週は上に伸ばした)、舞台に仰向けにねころんで、イヌーチル・パイザージェン歌と踊りの5番目と追悼詩集を読む。マイクが入っていなかったり(途中から一部だけ使う)、声が届かなかったり、最後にはマイクスタンドごと倒れてきたりと、いろいろな偶然性が、やってみれば、でてきて、面白かったのだけど、泣き始めたら面白いどころでなくて、自分の身体が何を話すつもりなのかコントロールできなくなってしまっていた。
 
たぶんもうこういう無茶なパフォーマンスはしないと思う。もうすこしリラックスして読めるようになりたい。だけど、やってよかったと思う。本当に本当に疲れたけれども。