circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

わたしに、少しだけ時間をください。ええ、知ってます。お医者様にいかなければいけません、精神薬はきえているし、泌尿器科へいって自分の恥ずかしいところをみせに行くことも、もちろんそのまえに綺麗に洗っておくことも、でも、たぶん今日も間に合わないのでしょう。でも/だから、わたしに、少しだけ時間をください。
 
http://kanaz.hp.infoseek.co.jp/modesty.html 
 
わたしという一人称と僕という一人称が混ざることが僕の文章や詩(のようなもの)の特徴です。そのときの流れで言ってしまいます。つまり、僕の中でわたしと僕の境界線が曖昧です。学生だからだと思います。社会に出て新しいペルソナのかぶり方を知れば、文章を書くときの一人称のあり方も当然変わってくるだろうと思います。しかしながら今から僕は僕を僕と書きます。それは、竹上泉という人間について、僕が何かを語ろうとするときの僕の流儀というか、僕の立場だと僕が思っているからです。たけがみいずみとも読み、たけがみせんともよむこのネットの上で性別不明の存在を、僕は現実界でも性別不明として話したり、散歩したり、寝ころがって読書したり、真夜中に大文字にのぼったりする。そのとき僕は僕の男性性を忘れるし、それは竹上という人がなにか性を超えた場所に存在しているからのような気がする。
 
竹上(以下面倒なので君と略す)の書く、まじめではない文章が大好きだ。ここでまじめな文章というのは、君が書く(もう書かない)詩や、君が書く小説や、そういった、気合の入った文章のことで、でも僕は君の私小説的な短いエッセイが大好きだ。modestyの、たとえばいちばん最後のエントリ、オランダ靴の謎を読みながら、君は変態だとおもう。歯を抜くのは恐ろしく痛い。誰だって知っている。そしてたぶん誰だってその痛さについて書くだろう。しかし君はその痛みにはちっとも触れないで、「常に口にものを含んでいる人みたいでいいな、と思う。」なんて、ポジティブなことを突然書き始める。驚いた。わけがわからない。なんでそれがいいのかわからない。わからないから君の文章はいつも魅力的だ。次が読めない。いつも君は一人で走り去っていく。京都のひとだ、無常のひとだ、と思う。君はもっと昔に生まれて、徒然草みたいなのを書いたほうがよかったかもしれない。そんな君が現代という間違った時代に生まれてしまい、それでも生き続けている、まだ死んでいないということが、僕はいつもうれしい。僕は君と心中はできない、もう僕は死ぬ気がないからね、知り合ったあのころなら一緒に死ねたかもね、君はまだ、死を考えているのかな、僕は醜く老いさらばえるだろうよ、君が死んだら僕は泣かないだろう、かなしまないだろう、いつか言ったみたいに、「おもしろいな」と思うだろう、そしておもしろついでに追悼文を書くだろう。だけど死なないでほしいとも、思う。ファンだからね。書かれては消えていく、君の短い文章たちの。その全てを読み、その全てを忘れながら生きていたい。いつかあった君の美しいサイトのように、あそこに書かれた全ての短い身辺のエッセイのように。君は君を消滅させて視線だけになる、そのときの君自身の扱い方の適当さや、対象を切り裂く視線の鋭いメスや、でも美しいものには純粋に愛に満ちた透明な視線になる、そういった要素の全てが好きだよ。なんだか恥ずかしい手紙みたいになってしまったね。はあぁ。君はたぶん此処を読んでないから、まあ、いいや。だから無責任にここに書いとく、僕に追悼文を書かせないでください。だけど、死ぬのは君の勝手だとおもうし、君が死んでも僕は君が死んだと思わないと思う。君はいつも君じゃなくて視線だった。鴨川を見て、草を見て、空を見て、鳥を見る視線だった。きっとこれからもそうだし、その視線がにごることはいつもないとおもう、きみが生きていても、死んでしまったとしても。