circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

1/2
僕は僕を・deconstruction・ではなくて・decomposition・するべきなのだろう。新年会で、初恋の人に久方ぶりに会って、初めて9年前の話をきちんとした。15だった彼女は24になって、でも彼女はなんともいえないかわいらしさが相変わらずあって、いまでもちょっと悶え死にそうになる。僕の目に狂いはなかったなあ、と思う。というか僕の目が変わっていないのか。美しいものを見ていると飽きないという習性が僕にはある(たいていの人にはあるだろう)けれど、昨日僕は彼女を見ていてずっと飽きなかったので、やっぱり彼女は美しいのだろう。新年会で、みんなのなかで楽しそうにいじられている彼女のキャラクター。みんなから愛されて、敬われて、好かれていた(いまでも、過去でも)。そういう人を僕は好きになる傾向がある。ぼくはみんなから愛されたり、敬われたり、好かれたりするタイプではない。新年会で中心になったり、弄られて可愛らしさを発揮するようなタイプでもない。山口昌男みたいな言い方をすると、僕は常に「周縁」にいる。そして、突然狂ったように「中心」に現れる「トリックスター」なのだと思う(たとえばボーリング事件)。基本的に暗い人間だと思う。それを改善しようと頑張って、ときどき狂ったように明るくなるけれど、それは無理しているのではないだろうか、と思うことがある。僕のマシンガントークはいつまでも終わらない。僕の駄文もいつまでも終わらない。書けと言われればジャック・ケルアックのようにいつまでも書き続けることができるような気がする(ただし自分のことしかかけないし、あんな名作が書けるわけでもない)。わたしはたぶん静かににこにこしているという存在だったはずなのだ。周縁でにこにこしている地蔵のような存在だったのだ。地蔵はときどきダジャレやジョークを言うけれど、それは耳を傾ける人だけ傾けてくれればいい、そういうキャラクターだったのだ。トリックスターになる必要なんてなかった。だけど僕は中心を憧れた。初恋の人は間違いなく中心の人だった。彼女は女の子たちから愛される人だった。可愛がられていて、いままで嫌われたことがないでしょう、と聞くと、そのようなきがする、と答えた。僕はいろんな人から嫌われてきた。恐喝されたし、キモイといわれたし、蹴られたし、教科書を叩き落とされたし、思い出したくない虐めをいろいろ受けて、それを克服しようとしてまた頑張ったのだと思う。人畜無害な人間になろうと思った。その結果がトリックスターだったのかもしれない。それでも、いまでも僕を嫌う人はとことん嫌う。初恋の人は不条理な理由で別れていった。昨日聞いたけど、やっぱり理由は理解できなかった。でもようするに翻訳すると「愛がなくなった」、というひとことで終わってしまうのだろう。その経緯や細かい理由を納得できると、次に進みやすいという利点はあるけれど、結局答えは一緒で、「愛がなくなった」という一言に集約されるんだろう。不条理な理由しかいわれなかった僕は傷ついてしばらく過ごし、次に、例の不思議な少女に出会う。捉え難い、謎に満ちた、アーモンド形の目の美しい、好奇心に満ちながら同時に自閉もしている、天使のような少女。彼女もまた愛されて育ち、女の子たちに好かれていた。女の子のファンがいるような少女だった(それは初恋の彼女もそうだった。ぼくはどうやら感性として女の子とおなじ視線を持っているのかもしれない。セクシーかどうかで女性を見ないようだ。女の子の視線で、感じがいいかどうかを見ようとする傾向があるようだ)。だけど彼女はあまりにも謎に満ちていたので、みんなに愛されていたわけではなかった。彼女は外に対して好奇心をいつも隠さなかったが、自分に向けられる好奇心にはかるい拒絶反応を示した。だから、彼女の目はいつも輝いていて、いろんな本を読み、いろんな楽器をさわり、いろんな世界に手を伸ばし、自分の夢や目標をきちんともち、いい友達をもち、その友達と高めあって生きていた、けれど、僕が彼女の内部に入っていこうとすると、彼女はそれを非常に絶妙に拒んだ。それは、夏目漱石の「三四郎」の美禰子と似ていた。彼女はつねに謎と霧のなかにいた(ルドンのパステル画の女性のように)。誕生日すら教えてくれなかった。そして謎がある人に対してほど、恋は深まっていくというのはほとんど定理のようなものだ。僕は彼女の謎のベールを脱がしたかった。でも脱がす前に彼女は消えてしまった。stray sheep. 僕は僕の中の全ての理想の女性像を彼女に投射した。それは、彼女が謎と霧の中にいたからなのだ。彼女はそういう、男性の理想的アニマを投影されてしまう女性(河合隼雄が言うには、そういうアニマを投影されて、惚れられ続けるタイプの女性が存在するらしい。彼女たちの共通点は、一見自己を持たないように見えることだ。謎と霧に包まれている、やわらかい存在だということだ。)だった。そして事実彼女はいろんな男の子に惚れられては、深い傷を彼らに残していった(なにしろアニマを投影されているのだから、彼女から断られるというのはとても大きなことなのだ)。そして両想いになった僕はさらに深い傷を負わされることになる。彼女は突然消滅した。彼女は僕にとって女神だった。そして女神は突然僕を否定し僕をストーカーと見なした(言葉はえらばない。選んでいる場合ではない)。神から徹底的に嫌われてしまった僕はどうすればよかったのか。「神は死んだ」と僕は何度も呟いた。ニヒリズムへ進むか、超人へ進むか。超人になるには僕は弱すぎた。僕には神が必要だった。だけど神は彼女だけだった。今後もあれほどのアニマ女性は現れないだろう、僕は傷を背負って生きつづけるだろう、だけどそれは僕だけじゃない、いろんなひとが持っている傷だろうと思う、だから彼女との訣別だけが僕のうつ病の理由ではない、うつ病の理由は普通複数あるし、それが糸のように絡まっているのだ。そのなかの一本はでも間違いなく彼女だ。彼女は決して故意に自分を隠したのではない、男を陥れようとして霧に覆ったのではない、ただ彼女は自分の表出が苦手だっただけだ。彼女に罪はない。勝手にいろんな男から惚れられるのに彼女は戸惑っていた(ふつうなら喜んだり調子に乗ったりするだろうに、彼女はとても謙虚だったのだ、そういうところも僕は好きだった)。彼女に罪はない。ただ、アニマを投影されてしまい、それを強く否定できるだけの強い自己表出ができなかっただけだ。これが、夏目漱石三四郎」の言う「無意識の偽善(Unconscious Hypocrite)」ではなかったか?そして「無意識」だけに、僕は彼女を恨むことはいまだにできない。彼女は永遠に僕の中でアニマを背負い続ける。ダンテにおけるベアトリーチェのように、女神であり続けるだろう。そして僕は永遠に、ただ口の中で迷羊ストレイ・シープ、迷羊ストレイ・シープと繰り返すのだろう。そのことを僕は否定すべきだろうか?この六年を否定すべきだろうか?否。時が解決すると人は言う。六年かかって僕の中で、彼女の影はすこしずつ薄まりつつある。夢にも出てこなくなった。昨日の夢は、昨日あった初恋の彼女が出てきて、可憐に踊っていた。彼女は僕にとって「他者」であった。とても可憐で可愛かったけれど、女神ではなかった、人間だった。そして、彼女が夢に現れたのはたぶん数年ぶりだと思う。これだけでも僕にとって大事件ではなかったか。僕が初恋の彼女に会って、10分だけでも二人きりで話したと言うことは、僕にとって、大事件ではなかったか。僕は女神を少しずつdecompositionしなければならない、彼女だって女神じゃなくて、人間だった、たぶん欠点だってたくさんあった(僕には付き合っている時間が短すぎて見えなかっただけだ)、その証明はもはやできない(彼女はもう一生僕とはあってくれないだろうから)けれど、その命題自体がうすまりつつあるのだ、6年かかって、すこしずつ薄まってきたのだ、僕はなんども自分の中の彼女を殺そうとした、そしてすこしずつ彼女は薄まってきているのだ。リメンバー。彼女に会う前から僕は鬱だった。小学6年生から僕の鬱は始まっていた。リメンバー。僕は特殊なうつ病で、それと折り合って生きてきて、ここ2年で破裂したのだ、彼女の存在は、蓄積していったものの一つに過ぎないのだ。リメンバー。彼女は人間だ。彼女はいまも、この空のどこかで生きている。この空のどこかで、あのアーモンド形の目を好奇心に輝かせている。自己表現もできるようになりつつあるかもしれない。リメンバー。僕は二度と彼女と会うことはないだろうけれど、時は流れている、彼女はもはや17歳ではない、17歳で死んだわけではない、彼女も変化し、僕も変化していっているんだ、もういない17歳の少女のために、strayしつづけることは賢明だろうか?僕はもういない17歳の少女のために、strayしつづけたいのだろうか。そうじゃないだろう。をもう一度読み返す。