circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

たとえば某氏の「サリサリ」とか「サリエント」とかことをふとおもいだしたりして、その言葉は無意味であっても、詩の中では無意味じゃない。なにか力を持った言葉で、でもそれがなぜ力を持っているのかは、口に出したり目で見たり触ってみたりしないと、説明できない。論理的に説明しきれない。法則化できない。それが人間という曖昧なマシンの面白いところである。無体系に言葉を並べたら面白い文が書けるのかどうか、というのはバロウズがやっているけれど僕は面白いと思えない(あれは並べ替える前の文章が面白かった可能性はないか)。カットアップでいかに面白いフレーズができるかできないかについての論考は山形浩生「たかがバロウズ本」(全文PDFあり)のp.158下から6行目あたりからにくわしい。詩人にとっては参考になる刺激的な内容ではないかと思うのでご一覧をお勧めしておく(偉そうな口調)
結局機械には無理なんじゃないか、というか、それを面白いと思うかどうかという人間のもう一度の取捨選択が必要となってくる。ここでカットアップというか、マシーン的に文法を崩していくのが詩人の脳というか感覚なのだろう。意味の融解。文法の融解。通常の表現の融解。それを行うのが詩人の脳なのであろう。ありきたりでないことをいうこと(あるいはありきたりだが乙女心をくすぐる言葉をいうこと__偽?)