circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

僕は自分の書き散らしたノートを捨てられないでいる。自分の過去の道程を記録しておきたいと思っている。だけど、それは本当に残しておくべきものなのだろうか。本当に重要なものは僕の中に今でも沈んでいるだろうし、書き出せば出てくるものなのではないだろうか。重要なのは常に今なのであり、過去の自分が書いたことは過去の自分にとって重要だったことなのではないだろうか。


書くという行為にはおそらく二つのまったく独立した意味というか価値があるのだろう。

  1. 記録する(長期的に)=ハードディスク
  2. 頭を整理する(短期記憶)=RAM

たいていの過去の「書き散らし」たちはRAMだったような気もしてきた。たぶん僕の詩もほとんどはRAMだったのだろう。自分の存在を永遠にあるいはみんなのために残したいと思って書いた詩は少ないんじゃなかろうか。