circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

詩とわけのわからなさについてかきます短いえすきす


詩ってこうあるべーきー!みたいなのくだらん。場の雰囲気に合わせて書くとか、評者の好みにあわせて書くとか、くだらん。たとえば、散文詩がはやってるから散文詩をかくとか、ギャグ詩に票があつまるからギャグ詩をかくとか、いま挙げたのはぜんぶ仮想の例だけど、で、いい作品はそうやってでも産出されうるとおもうんです。しかし、わけのわからない詩はぜったいそうやっては生まれない。もっかいいう。わけのわからない詩はぜったいそうやってはうまれない。わけのわからない詩は、詩人がわけのわからないときにしかうまれないんじゃないかとおもう。だんだんその詩人が周りからもこんなひとだろうなってわかられはじめたり、いちばんやばいのが、じぶんはこういうひとだろう(詩において)ってのがわかりはじめたら、もうわけのわからない詩は生まれないんだろう。へたっぴだっていい。こなれてなくっていい。わけのわからないのをよみたい。わけのわからないおんがくをききたい。わけのわからないしょうせつをよみたい。わけのわからないえいがをみたい。たたきのめしてくれ、とおもう。よそうできるものなんていらない。「こうすればもっとよくなる」っていうことばはいらないし、そんなことばをなげかけられるしもいらない。「もうひどすぎて(あるいはわけわからなすぎて)、てのつけどころがない」なんてしをたくさんみたい。だけど、そういうしをかくというのは、まず人がすくない。つぎに、たいていそのひとの初期や、ひさしぶりに書いた作品というように、もう形とかかんがえてらんない、とにかく産出したいというマグマ的エネルギーでおしだされてきた、みたいなじょうきょうじゃないとでてこないようなきがする。わたしがただなんとなくそんなことをおもうだけなんだが。なにしろ、わたしじしんがわかりやすすぎるので、わたしのかくものはたいていつまらない。論理がとおらないといつもいらいらするので、そんなにんげんがわけのわからん詩なんてなかなかかけない。意味を骨折させなければ、脱臼させなければ、つまり、論理-言語回路を切断して、絵画-音楽回路で詩を書いていかないと、わけのわからんものなんてでてこないんだ。だけど、そこまでしてなんで詩なんて書きたい?と問い詰めると、結局自分のレーゾンデートルに至るわけで、かんたんにいうとさびしいからこっちむいてよう!こんなのかいてみたけどみよちゃんどうおもう?というみよちゃん(仮)への恋心みたいなものにすぎないんだな。みよちゃん(仮)は「社会」であり、ダメ人間であるわたしは社会を恨みながらも社会に求められたい、振り向いてもらいたいという、結局「人間は社会的動物」(アリストテレス?)なのだな、とおもう。第一義的に社会にわかってもらいたがってるじてんで、わけのわからない詩なんてかけないよ、とおもう。そんなもの第ニ義でいいんだ。自分がつまんないとおもう詩が社会にうけいれられてもしかたないよ、一番厳しい批判の目は自分の目なんだよ(可能性的に。もちろんいちばん甘い目にもなりうるけれど、ほんとうに成功した場合は自分の目がだれのものよりも厳しくなりうるとしんじる。)