circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

魔法を見せよう。猫背の人は静かに微笑みかけ、手を閉じて開いた。丸いものが浮かび上がる。この人は私の知らないところで、私の知らないものを見てきた。そう私は思った。それは夏だった。


夏の終わり。いつまでも続く夏の終わり。私は手を閉じる。そしてまだ開けないでいる。2015/9/12

寝たきりになったときにはとてもショックだったが、それを引き受けて生きてみれば、こんなに面白いものだったのかと思っている、引き受けて、そこでできることをやってみること、とテレビで寝たきりの方が話していた。引き受けて、その場所で、できることをしていくこと。

昼下がり、哲学の道を歩く。道の真ん中で女子中学生三人が、見たことのない涼しげな制服で、ノートを持って外国人旅行者のお姉さんにインタビューしているのを、少し離れて若い女性教師がタブレットでビデオを撮っているので、私も他の観光客も邪魔しないように避けて通る。通り過ぎる時にひとりの顔を見た、彼女は旅行者を見上げて、まっすぐな好奇心溢れる目をしていた。世界が眩しそうだった。それが透き通るように眩しくて。


谷崎の息子嫁である渡辺さんの開いていたカフェが、その後放置されていたのを、犬が入れるカフェにしたあとそのカフェも無くなって、いまはとても綺麗なカフェテラスのあるカフェになっている。ここのことをわたしは大人になってから知り、渡辺さんをモデルにしたという瘋癲老人日記を読んだ。京都と熱海という道を駆け抜ける二人のことを考え、猫猫先生の渡辺さんに関するブログのことを思い出し、ぼんやりしながらこのカフェに置かれている文庫の谷崎=渡辺書簡集を開く。谷崎が18、9の渡辺さんを初めて見たときの絵はさっきのわたしがみた世界と似ていたか、似ていなかったか。

きょうの贈りさん原稿で削った部分

https://po-m.com/forum/myframe.php?hid=819

OQさんと名乗られている時期があり、それは恍惚が黄金期を終えて、鉄の時代に入った頃と僕が思っている時期で、サザンがQということと、オクリさんのOQの2つの掛けがかかっているのだと思う。そもそも、山茶花贈りということについてはこの詩に触れられていて、http://www.rondz.com/poem/poet/18/pslg17031.html#17031
一方で彼は菊返しという筆名でpoeniqueにも投稿されており、同時期にいなかった僕はpoenique名作選で残されていた彼の詩をやはり畏敬し、なぜに恍惚では贈りぽえにーくでは返すのかと考えていたのだけれど、どちらの名前にも、「必殺!」のような何かがひそんでいて、菊返しさんの詩、と呟いただけでやはりおののきを覚えるのでした。なんだこれ、ただの僕のミーハー記ではないか。にもかかわらず、誌上の人となったこの詩人を追いかけていない僕はたぶんインディーズ厨みたいなものだと思ってもいます(あのバンド、インディーズ期は良かったよね、とか得意げに言う人。くるりチャットモンチーについては真剣にそう思っていて、チャットモンチーの赤いざわめきという歌を是非検索して欲しいのですが、それは関係のない話であり、)