アスパラさんに関して考えることはとりあえずまとめたように思う。
風の吹く晴天の下で、スケートリンクは徐々に照らされていく。
ここまで激しくスピード、スピード、スピードで走ってきた詩が初めて、
じんわりと暖かく広がる動きに変わる。
もはや「きみの日なた」の「きみ」が、
いままでの「きみ」か、
「ガールフレンド(きみの)」のことだか、判然としなくなる。
判然としないまま、恍惚として溶ける。
「日なた」が「とじ込められる」という主語と述語の組み合わせを見たことがない。
この意外性は、これ以外にない必然性をもって僕に迫ってくる。
どのように「日なた」が「スケートリンク」に「とじ込められる」か、この可能的映像は、
読者それぞれが定義しうる多義性を持っている。
その自由を与えられている。
そのうえで僕は、納得してしまう。
そうか。「ぼく」は「きみ」の「日なた」なのか。そうか、そうだよね。
だって2回も言うのだもの。だって、君は2回も言うのだもの。
1度見れば日なたは日なただって、ふつうわかる。だって、明るいし。
でもアスパラさんは2回言う。きみの日なた
日なただよって言う。これは、明らかに届けようという意志が働いているのだとおもう。
「ぼく」が「きみ」の日なただって、気づいていないのかもしれない。
いや、たぶん気づいていない「きみ」のために、2回書かれている。
強く訴えかけてきている。
この、「きみは気づいていないかもしれない」性。そこに僕は激しく打たれる。
「とじ込められ」ているのは、「ぼく」が、
きみだけ(!)のための「日なた」だからかもしれない。
もしかしたら空の上から「ぼく」はそう言っているのかもしれない。
もはや妄想すぎるけれど、どんな暗い絶望的な状況にいるとしても、僕のために、
だれかが、僕だけのために閉じ込められた日なたでいてくれて、
きみの日なた、日なただよ、って言ってくれることがあるかもしれない。
だから僕は生きなくてはならない。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=281302
どこまでも彼女の描いた空は高い。
死の知らせを聞いた時、なぜかさわやかな風が心の中を吹いていった。その感じがずっと続いている。どこまでも突き抜けるような秋の空の高さが残っている、というようなことを、H君が言った。こんなにも喪失感の顔をしない喪失感、いったい何なんだろうか。
間欠泉のように今後考え続けるだろうし、思い出し続けるだろうと思う。