circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

京都市交響楽団愛知公演

広上さん就任以来、京都市交響楽団を聞くたびに、京都市民の誇り、と思っていて、京都に税金をおさめていてよかったとおもう。愛知の地で偶然聞くことができて、拍手喝采を受けるオケと広上さんをみながら、また、京都市民の誇りだなあ、とか、思う。アンチナショナリストなのに。京響に一体何が起こったのだろう、小さなN響みたいに、整っていてはみ出る事をしなかったつまらなかった京響が、いまや毎回一生懸命、アマチュアのようにここ一回性に駆けた冒険(リスクが高い事をしていると思う)を仕掛けてくる。広上さんはそもそも踏み外したり煽ったり、手に汗を握らされる指揮者で好きだったのだけれど、普通のオケがその煽りについていく一方で、われらが京響はついていかない。その先を行くのである。広上さんの指揮から倍増されたイメージの地響きが立つ、これがどうしてあの昔の京響から出てきただろう、一体何が起こったのか?佐渡さんでさえ京響では小さくまとめているように見えた(先輩だから?)、井上さんのトゥーランガリラもいまの京響の地響きはしていなかったと思う。私がいつも感動するのは、パーカッションの女性陣が広上さんを先回ってリスクをとって攻めているように感じる事で、その思い切りが、日本のどの主要オーケストラからも、いや、ウィーンでもプラハでも聞かなかったような地響きを立たせているのではないか、ラヴェルボレロの最後に広上さんがバーバリズムかシャーマニズムかと音楽を体現する動き(しかしそれは音楽を率いているのであって合わせて踊っているのではない、しかしこのオケのついていき方はどうだろう!普通の指揮と違って、広上さんと京響の間にはパルスの遅れがほとんど無い。箔をみてからではなく、先読みも含めて演奏している、これは指揮者の動き方を自分の肉体のようにすでに把握している事の証左ではないかしら?)のなかでそこをさらに野蛮に(かつゴロバーノフ的めちゃくちゃにならずに!)ならされたパーカスと金管のすさまじさ。特にドラがものすごい出てて、卒業前の学生オケですらここまで情念を込められない(学生オケの情念というのは私にとって最大の賛辞)と思う。テンポを後ろにけしてひっぱらず、むしろすこしまえのめっていく興奮。2009年の河村さんのラフマニノフのとき、あんまりびっくりして泣いたのだけれど、相変わらず日本で一番おもしろい指揮者とオケだと思った。京都以外で聞ける機会が少ないけれど、ここの数少ない読んでくれるひとが、近いうちにきいてもらえるといいなあとおもう。いつこのコンビが解散になるか、そればかり心配している(心配の要素があるからではなく、あまりにもいいものだから)


沖仁さんは…ろどりご二楽章で突然立ったので吹いてしまいました。譜面台かと思っていたものが、お立ち台だったなんて。滅多に見れないおもしろいものをみた。ほかは、たぶんくらしくとふらめんこの違い、たぶん音階に対する考え方の違いが目立って、いちおんいちおんに核を必要とする書かれ方とスピードのものが、ふらのスピードのための核のない音階で、くらしくで書かれたスピードでひかれるものだから、すかすかした。二楽章の自由なカデンツァは本領に近いことなのかなあ、と思ったけれど。


りむのスペ基礎は冒頭の楽想だけがあまりよくない、それ以外は美しいのに、冒頭がいつも循環してくるからあまり好きではない曲、だけど、それ以外の部分美しかったです。ブラボー叫びたかったけど我慢した。でも寒気は何度も走ったし、ボレロはすこし泣きました。