circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

それでもとても気にかかっている、風立ちぬ。ひとつの仮説が頭をよぎる。宮崎さんは、自らの恋愛プロットに対する無能さえ、無防備に曝け出しに「かかっているのではないか、」ということ。あの下品ささえ。吹き出してしまうような線の回収(泉に祈っている?)さえ。いままで忘れていて「君が?」と人差し指で思い切り女の子をさして驚いていた主人公に、「帽子を拾ってくれたときから恋していた」と嘘満開なことをいわせるその嘘満開ささえ、目の前の、渾身を渾身して渾身で渾身しきって描いたにちがいない灰色の髪の毛(明かりに照らされた)の結婚式、渡り廊下の、スローモーション的な。を目の前にしてはもう美しいとか大好きだとか出会ったときから好きでしたとかいいたいからいうのだろう。キスしたいからするのだろう。そういう、一言でいってしまったら下品、となるところ、あえてよくいえば恋愛に対してどこまでもチャイルディッシュな自分を、初めて隠さずに曝け出してくれたという、天晴さ。もののけ姫でどうしても許せない口移しに見せかけたキスシーンの下品さ(作品をおとしめるものと思う)と比べれば、ついに底の浅さを隠さなかったことに、それなりに打たれてもいいのではないだろうか。それでも、と私は思う。戦中の映画はキスシーンなどなかった、戦中の日本の恋人たちは、おそらく婚前に、おいそれとキスなどしなかっただろう、と。