circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

詩は死を志向するものだという強迫観念があってですね、だから詩からは遠ざかりたいと思うわけですが、もし詩が詩/si/ではなくて詩/sei/であったなら、という仮定をしてみたことがかつてあって、そこの違いはeなんですね。で、結局eroのeだなと思うんですけど、やっぱり性/sei/と死/si/の関係なんていうところにすぐネガティブ思考な私は飛んじゃうんですね。生きるという言葉を言うときはどうしても息まなければならなくて、息むのって、結構つらいじゃないですか。生きろって言うとき、やっぱり息ろって言われてるし、生きろって発音するためにはかなりの息が必要なんだと思うんですね。じゃあ生きるでも死ぬでもないというモデルがあるかっていったら、それが「いかにして匿名の自然の一パーツたるか」ということなのかと、困ったときの武満徹頼りなんですけど。手をせせらぎに浸せば流れる水を手に感じとるように、「音の河」に彼は手をさすのみであるし、武満に言わせるならば谷川俊太郎もまた言葉(日本語)の河に手をつけているということなのでしょう、そこには多分極端ではない生き死にのあり方があって、それを仮にalive/dead live/dieに対照させて、「暮らす」というふうに私は呼ぼうかなと思うのです。暮らす、というのはなんだか優しい響きだと思いませんか。えっと、クラスとか思い出しちゃいけません。↑ク↓ラ↓ス だとclassになってしまうのですが、私の中で暮らすは↑く↑ら↑す、と上のままで保たれるのですけれど、これは京都弁なんでしょうか。す、が一番わずかに高いです。くらすぅとなってもいいです。暮らす上で幸せになるような言葉をかければそれが良いわけで、「うた」とそれをよんでもよいのかもしれません。仮に暮らすことが河に たゆたう ことであるならば、それはうたとよばれるべきでしょう。暮らすを名詞化すると暮らしになってまたsiが入るのでそれをさけるためにやさしく ぼ とでも読んでおきましょうか。それはやはり母であって、ははのうた、みたいなものを、いつか私は書きたいなと思っているのでしょうか。こんなことを言ってないで寝なければ。暮らすための活力となるようなものであればべつにははのうたであるひつようもなくて面白けりゃ良いのかなとも思うんですけど、いまわたしの脳内から面白い表現方法や言葉の組み合わせは出てきそうにもないので、やっぱりありふれたようなうたをときどき書いては、じぶんをやさしくだきしめるのでありましょう。それは非常に恥ずかしいことではありますが。